既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第1章 酪農の発展

第5節 生乳の需給

4.戦後の生乳の需給

(1)生乳の生産状況

 表1−5−2は農林省統計表による昭和戦後期における生乳の需給状況である。

 戦時中は乳用牛頭数約3,000頭足らずで推移していたが,昭和21年(1946)の終戦の混乱により,1,766頭と激減した。その後昭和25年(1950)に3,008頭に回復した。当時の乳牛は22パーセントが牛乳屋で飼われ,残り78パーセントが酪農家で飼われていた。県衛生課では牛乳の販売許可のために「牛乳搾取処理販売営業」の鑑札を与え,酪農家には「牛乳搾取業」の鑑札を与え農乳と称した。終戦の混乱と人手不足,飼料不足,牛価の暴騰等によって乳用牛は激減した。特に牛乳屋が姿を消し,酪農家が残った。
 終戦直後の生乳生産の伸びは,昭和22年(1947)に対前年比82パーセントと減退したが,その後は20パーセント以上の伸び率を示した。特に昭和29年(1954)は対前年比156.9パーセントと著しい伸びを示した。これは朝鮮動乱の外需による工業生産の伸びが,経済の好況をもたらし,畜産物の需要を著しく伸ばしたことと,昭和28年(1953)から始まった有畜農家創設特別措置法に基づく乳牛導入,特にジャージー種の導入事業等により急速に乳牛の頭数が伸びたことが原因である。しかし,M・S・A・(日米相互防衛安全協定)援助により食糧輸入,先進酪農国の余剰農産物処理のための外圧が加わり酪農不況を現出した。
 昭和30年(1955)美作集約酪農地域,同32年(1957)備中集約酪農地域,続いて同34年(1959)旭東集約酪農地域が指定された。これらは,乳牛を適地に集約的に飼い,生乳の生産から処理加工までを含めて,経済性の高い酪農団地を建設することを目的としたもので,酪農審議会,生乳取引契約の文書化等による生乳処理の体系化がなされ,各地域に中心となる工場が指定されることになった。すなわち,美作に雪印乳業株式会社,備中に明治乳業株式会社,旭東にオハヨー乳業株式会社が,それぞれ基幹工場として指定され,集乳処理の効率化が図られた。このころいわゆる「神武景気」に支えられて,同31年(1956)には同29年(1954)の酪農不況から一転して,乳価は大幅値上げされ,酪農好況を現出した。しかし,昭和32年(1957)には乳価が値下りして,第一次酪農危機が到来した。牛乳消費拡大のため,この年学校給食要綱の制定があり,同34年(1959)には酪農振興法の改正による学校給食事業の法制化が図られた。翌35年(1960)には牛乳の需要急増し,乳価は大幅に値上りし,外国から乳製品が緊急輸入された。このように目まぐるしい情勢の変化に対応するために,昭和34年(1959)に生乳の一元集荷,多元販売を主要任務とする岡山県酪農業協同組合連合会(県酪連)が結成された。
 図1−5−1は,岡山県の生乳生産量を示したものであるが,集約酪農地域建設時から年々乳量は急増し,とくに昭和30年(1955)から同37年(1962)の間は対前年比18パーセントから30.7パーセントの伸び率で,国の7.7〜18.0パーセントに比べ格段の伸び率であった。昭和38年(1963)から同24年(1967)の間は農業基本法により,副業的酪農から「選択的拡大」の主役として酪農の専業化,企業家を志向した時期であるが,小農が脱落し,乳牛頭数は横ばいとなり生産が低迷した時期でもある。

 昭和43年(1968)から同45年(1970)の間は,飲用向生乳価格の大幅値上り,牛乳消費運動等による需要の伸びが支えとなり,生産は9.0〜18.0パーセント伸びた。46年(1971)には牛価は値上りし,屠殺するものが増え,乳牛頭数が減少するという事態を迎えた。また昭和47年(1972)には畜産環境汚染問題が重大化し,環境整備に多大の投資が必要となった。昭和48,9年(1973−74)にはオイルショックにより牛価の暴騰と飼料価格の高騰により,酪農経営の危機を迎えた。しかし,昭和50年(1975)の乳価二段式値上げに助けられ,同年から同53年(1978)までは5.0〜8.0パーセントの伸び率を示した。
 このように本県の生乳生産は,集約酪農地域建設の昭和30年(1955)ごろからのち一貫してかなり高い伸びを示した。このような伸びは,乳用牛の増殖の伸びと深い関連をもつことは当然であるが,乳価や飼料価格も大きく影響した。それ以上に戦後の酪農を伸展させたものはわが国の経済成長であろう。

(2)岡山方式による生乳の需給調整

 昭和32年(1957)秋から翌年にかけての国民経済の悪化と,大缶煉乳用砂糖の免税撤廃などの悪条件が重なり,また初春以来の多雨にわざわいされて,牛乳の需要が減退し,乳製品の異常な滞貨となり,生乳価格の引下げ問題が起こった。県は,乳価引下げによる生産意欲の減退を防止し,酪農の健全な振興を図るため,次のような乳価安定対策を進めた。先ず,全国に先がけて「乳価安定対策要綱」を,次いで「第2次牛乳の消費拡大要綱」をそれぞれ定め,乳価措置の斡旋をする一方,「牛乳を飲む月間」を設け,「ミス牛乳」を募集するなど,消費拡大の大宣伝を行った。そのため1升当り47円の乳価を維持したが,9月以降メーカー側は一方的に42円に引下げを行った。そこで県は昭和34年(1959)1月に「岡山方式」と呼ばれた「岡山県生乳需給調整並びに乳価安定指導要綱」を定めた。生産と消費のバランスをとるため,酪農団体と県内乳業メーカーの協力のもとに,特別会計を設けて生乳の買入れ,売渡しを行った。この事業の遂行は必ずしも平易ではなかったが,当時県農林部長荒木栄悦と,畜産課長惣津律士が辞表を懐に敢行したもので,まさに偉業というべきであろう。

(3)県酪連の生乳の受託販売

  1 県酪連の受託販売量

 岡山県酪連の創設以来の生乳の受託販売量は表1−5−3のとおりで,その受託率は,昭和30年代には80パーセント台で推移したが,40年代以降90パーセント台を維持している。

  2 不足払法による乳価

 昭和41年(1966)から,加工原料乳生産者補給等暫定措置法(不足払法)による補給金は表1−5−4の乳価明細表により支払われた。保証価格と基準取引価格は,国が畜産振興審議会酪農部に諮って決めるもので,その差額が補給金となる。この補給金を給付する対象が加工限度数量である。
 加工向原料乳とは,指定乳製品の外,指定乳製品の規格に合格しないバター,脱脂粉乳,全脂加糖煉乳,脱脂加糖煉乳,全粉乳,加糖粉乳,全脂無糖煉乳,ナチュラルチーズ,還元脱脂乳等を製造する原料乳が対象となる。加工比率とは加工原料乳認定数量を総受託乳量で割ったもので,この比率が大きくなることは,飲用比率が小さくなることで,市乳生産が少なくなることである。元来,飲用向原料乳価は,つねに高く維持され,飲用比率が大きくなると生乳価格が高くなり,酪農界は好況となる。冷夏その他で飲用乳の消費が伸びない年は,反対に不況となる。
 プール乳価は,飲用向乳価に飲用比率をかけたものと,基準取引価格に加工比率をかけたものとのプール計算をして決める。このプール乳価に補給金を加えたものが補給金加算乳価として農家に支払われるものである。
 飲用等向乳価は,乳業者と生産者団体との間で決められるもので,需給関係のほかに,乳業者,小売業者および消費者の関係があり,生産者は時に乳業者と利害の相反する立場になることがあり,中央交渉に呼応して,出荷拒否を含めたはげしい乳価闘争が起きることがある。

  3 不足払法に基づく補給金

 不足払法に基づく補給金は,毎年度表1−5−5のように給付された。加工認定数量とは,知事が指定生乳生産者団体が加工原料乳として扱った乳量であることを認定した数量のことである。昭和52年度まではこの加工認定数量が,加工限度数量以下で推移していたが,昭和53年度から限度数量をオーバーすることとなった。昭和51・52年度では生乳生産を奨励する意味で乳質改善奨励金,給付金が支給された。
 県酪連は,一元集荷多元販売の実効をあげるため,集乳路線を整備するとともに,施設の充実に努めた。すなわち,昭和36年(1961)に和気町,同37年(1962)に北房町,同44年(1969)に清音村,同45年(1970)に賀陽町にクーラーステーションを設けた。また,生乳輸送の効率化のためミルクタンクローリーを同53年度までに59台整備した。

(4)学校給食用牛乳の供給

 この事業は,酪農振興法,および学校給食法によって表1−5−6および表1−5−7のように実施せられた。県は年度計画を作成し,国の承認を得て,県酪連と謀り,業者を選定し,小中学校に対して給食用牛乳を供給した。