既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第2章 和牛(肉用牛)の変遷

第1節 総説

 わが国に神話の時代から牛が存在していたことは明かである。これは野生の状態で存在したもののようで,鋳方貞亮(昭和20年)によれば,野生牛の存在を推測させる資料として,播磨風土記の揖保郡の条に,「塩阜という地名があり,ここには淡水と海水が往来し,これを牛,馬,鹿が飲みに来るので,この名ができた。」とある。この場合,鹿は完全に野生のものであるから,牛馬も野生のものであろうと推論することも可能であるとしている。さらに,同記の宍禾郡の条には「塩村」の由来書きがあり,「所々に塩水が出るので,塩村といい,牛馬などが好んでこれを飲んだ。」とあるところをみれば,この場合の牛馬は,放牧もしくは野生の状態のいずれかはっきりしないとしている。
 兵庫県農務課(昭和3年)の『兵庫県之畜産』によれば,「鋳方貞亮(昭和20年)は,家畜化された牛馬が,わが国へ渡来したという説をとっている。すなわち,古事記,日本書記および播磨風土記などを資料として,天日槍命(天日桙または矛命)という南朝鮮新羅国の王子によって代表される大量の移民が,垂仁天皇から応神天皇の時代(紀元前29−390)にあり,牛を水田に使役し,あるいは食用に供する習慣のあるこれらの民族が,朝鮮半島から牛を伴って,m馬地方から出雲地方へかけて渡来したものと推測している。」と述べている。
 以上のようにして,家畜としての牛が,朝鮮半島と密切な関係にあった兵庫県m馬地方や島根県出雲地方に渡来したものが,岡山県へ入ったことは容易にうなずけるが,いつ,どのようにしてはいったかについての記録は,つまびらかでない。

1.近世における畜牛の飼養

 近世においては河内,摂津,紀伊等は,牛の商品化の進んだ使役地帯を形成していた。育成地は,これらと中国地方の生産地との中間にある丹波などであった。中国地方においては,備中,備前,備後,伯耆などはm馬とともに和牛の繁殖地(生産地)で,鉄山の開発を中心とする商品経済が,和牛生産を推進させ,飼養密度が極めて高く,多頭飼養が一般的であった。天保6年(1839),備中阿賀郡花見村(現新見市千屋花見)では,1戸平均5頭の牛を飼い,同郡用郷村(現新見市)では10頭平均の牛を飼っていた。近世後期には,備中哲多郡,美作苫田郡などが,牛飼養密度の高い生産地の仲間入りをした。宝永5年(1708)から文化元年(1804)までの約100年の間に,作州河辺村(現津山市)では,牛の飼養頭数が約2倍に増加した。このようなことが,当時この地方の一般的な傾向であった。このようにみると,昔から,和牛の生産地は,山野草の豊富な交通不便なところにあった。
 備前南部では,近世前期には牛が多く飼われていたが,中期以降頭数が減少して,使役地帯に変った。近世前期まで牛の生産は自給的であって,自給の余剰が売られるという性格であった。元禄ないし享保年代(1688−1735)以降になると,近畿,瀬戸内の使役地帯と,中国山地の生産地帯との飼養形態上の地域分化が進み,後者は,先進的産牛地として,全国的に飼養密度の高いところとなった。