既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第2章 和牛(肉用牛)の変遷

第2節 和牛の改良と登録

1.藩政時代までの畜牛の改良

 近世以前の牛の利用目的としては,採糞,農耕のほか,貴族の牛車,一部支配階級の乳利用が挙げられる。
 近世になると民間の農耕,駄載等の役利用が普及し,これに対応して体格の向上に重点を置いて改良が図られた。また,中国山地の鉄山師が,利殖のため牛を商品化するようになって,連産多産の繁殖性が要求されるようになった。(粗鋼や薪炭の駄載運搬はおもに馬によった。)このように藩政時代までの牛は,馬が軍事目的のため藩から政策的に手厚い保護を受けたのに比べて,むしろ当業者により,立地的,経済的な見地から,地方産業との強い結びつきのうえに立って改良されて来た。したがって,当時の牛の改良方向は,専ら実用として粗放な飼養管理に耐えて長持ちのする,頑健な,性質のよい牛をつくるということにあった。
 兵庫県畜産課(昭和46年)の『兵庫の和牛』によれば,m馬牛は近畿地方の車牛として,比較的肩が薄く,前勝ちで,長脚で,後躯の貧弱な役牛タイプに改良され,岡山など砂鉄地帯の牛は,むしろ地底い,背腰の強い,肢蹄の強固な牛が好まれたということである。

 (1) 種牛の選択

  1 国牛十図

 牛の体格資質などについて記載されたものは,延慶3年(1310)寧直磨の『国牛十図』が最も古いものとされている。これによれば,当時京都に集って来た地方の牛の中で次の10ヵ国のものを「十牛」と称しそれらの皮,肉,筋骨について,こまかく記載してあって,これをみれば,当時の牛の外貌をうかがい知ることができる。
 十牛とは,筑紫牛,御厨屋牛,淡路牛,m馬牛,丹波牛,大和牛,河内牛,遠江牛,越前牛および越後牛のことである。
 時代はずっとさがって,元禄13年(1700)『駿牛絵詞』に出てくる逸物の牛の産地と数とは,筑紫牛(13),越前牛(10),丹波牛(4),大和牛(4),御厨牛(3),河内牛(2),出雲牛(1),相良牛(1),周防牛(1)となっていて,当時はまだ備前,備中,美作など山陽の牛の記録は見られない。

  2 牛町由来記,相牛秘伝

 江戸時代の中期以後になると,美作の牛が畿内で役牛の王座を占めるようになった。中国山地に牧畜が発達した要因としては,1つは畿内における役牛の需要増大であり,もう1つは,中国山地は好適な放牧場があって,天与の産牛地であったためである。畿内の農耕用牛や京都周辺の車牛は,当時中国の産地から大阪天王寺その他の牛市場をとおして盛んに移入された。近世初期,天正(1573−91),元和(1915−23)のころ書かれたものという『牛町由来記』によれば,大阪天王寺の石橋孫右衛門という博労の親方は,官から鑑札を受けて牛町の支配をしていて,博労牛問屋の元締をしていた。この家には子々孫々家伝として秘蔵していた書物があり,その中に牛の取扱い方や相牛術を伝える伝授書がある。その中の相牛についての抜粋は次のとおりである。
   1 牝牛は乳の下が白くて,乳細長の方を良とする。乳太く短い方は乳の出が少ない。
   1 種牛は惣身黒を第一等とし,次に白斑を第二等とし,余は悪し。
   1 種牛は,ひのよわい牛(脾の弱い牛)は悪く,膚の麗しく,毛のやわらかいのがよい。ただし,ひのよわいとは,膚にボロボロの米粒様のものがあるものである。m馬牛に限りこの病は甚だ少ない。
   1 種牛は国内にてm馬産の牛に限るというが,次のところを第一等とする。
     大城谷,八木谷,大屋谷(以上いずれも現美方郡)
     ただし,丹波,因幡,播磨国の牡牛は突き牛が多い。種牛には甚だ悪し。(黒毛に赤味のついているものを丹波毛と称してm馬に赴くという)。
   1 種牛は,性質温順,柔和なのがよく,およそ体高3尺2寸(注 約97センチメートル)内外をよしとする。
   1 内国の牛おおいに甲乙があるというけれども,次のようなものがよい。
     m馬国七美郡(現美方郡)大城谷,大屋谷,八木谷,牝牡とも良牛である。耕運は上等である。備前,因幡の牛は耕運中等である。ただし,智頭郡(現鳥取県八頭郡),美濃郡も良牛である。
     丹波,播磨国の牛も中等であるけれども,牝牛に突き牛が多い。紀伊,讃岐,小豆島および四国出生の牛は,耕運に不適当である。しかし,食料としては滋養効果がある。(短脚短胴を貴ぶ)。
     (筆者注 この項は8番目であるが,便宜上ここへ掲げた。このほか種牛の繁殖関係について6項目あるが,これらは,後述する繁殖方法に掲げることにする)
 「右のとおり祖先からの伝説であるから(後略)」とあって,当時種牛の選択に当たりどういうところに眼をつけたかということが分かる。

  3 御法(五法,五方)

 昔から牛の良否鑑識法を相牛(審査ではない)といい,一つの技術として尊重されて来た。昔からの相牛法は,おもに博労の経験から発したもので,合理的なものもある反面,中には非常に非科学的な不合理なものもあった。中国地方において古くから御法といわれているものは,相牛法の代表的なものである。その方法の詳細について記述することは省略するが,要するに牛の体型資質や性質を判断するものである。
 つぎに,m馬,丹後他方で,次の歌を「菅公の作」と称して,相牛の要諦としたといわれている。
   天角,地眼,鼻たれて,一黒陸頭耳小歯違う(一石六斗二升八合)
 この意味は,角は天をさし(形よく),眼は前方地面を見(性質温順),鼻鏡乾かずつねに湿っていて(健康),毛色は黒一色,頭直に(あるいは鹿頭すなわち鹿の頭のような),耳は小さく(資質よく),歯は斜に磨滅して反芻をよくしている(健康)牛がよいということである。
 これと同じような相牛法として,伯耆国日野郡地方で「一石二斗三升四合五勺」というのがある。これは一に黒毛,二に頭,三に性(性質),四に釣合(均称),五に尺(体高,尺は四尺すなわち121センチメートル)として,体高などより品位,資質の向上を優先させていた。

   4 牛療法調法記

 日野友松軒の『牛療法調法記』には,宝暦6年(1756)の出版である。この中の相牛法に「牛頭少く,脳大く,頭長く,身短く,角力,眼円く,背高く,臀低く,食毛不分,丘足ひとしきは耕力をなすべし。角円く,紋細なるは遅滞,角耳を去ることを指を容るばかりは千里を行けども転ばず。項の骨長く大きなるよし,毛短く密にして黒きものはよく寒に耐ゆ,毛粗なりて長く,鼠の毛のごときは寒を怕る。前脚は直に濶く,後脚は曲りて開くは吉。股痩小さきは凶。前脚は弓の如く,蹄大きく青く黒く紫なるを鉄蹄とす吉。蹄の色黄なるは行に力なし。身円く。角厚く,尾骨あらく,毛少きものは力あり。また,尾やや長きものはおおいによし。」とある。

   5 毛色

 12世紀(平安後期から鎌倉時代)の文献や絵画などから,当時の畜牛の毛色は黒,黒白斑,褐,褐白,斑,すだれ(簾)などであり,黒色系が大半を占めていたことがうかがえる。
 備中国阿賀郡(現阿哲郡)地方から生産牛を遠方へ移出するとき,追子の歌った「追いかけ歌」に次のようなものがある。
     取らずで三歳 尺二寸(注四尺二寸 127.3センチメートル)
     額にチョボット   九旺の星
     頸にはおけさの   かけまだら
     背には小判の    負いまだら
     腹にはじゃたいの  しめまだら
     四足が白うて    尾が白うて
     伯耆の国では    地蔵市
     備後の国では    久井の市
     どこの市でも    三百両
     さあ馬喰さん    買いなされ
 近世末期になると黒色のものが普通であったが,赤褐色,赤褐白色,黒白斑,赤褐黒あるいは簾などのものがあった。被毛が黒色で腰部,尾端および四肢の下部がわずかに白色のものが一般の嗜好に適したようである。竹の谷蔓牛には簾毛あるいは赤色のものがあり,分れ蔓の大赤蔓にも赤毛があったほか,天保(1830−43)のころ竹の谷蔓を購買した卜蔵蔓の中にも赤毛の牝があった。しかし,近世末期(1800年代)になると被毛の色は黒に統一される方向になったが,まだ,毛色よりも実質的な能力の追求が重視されていた。

   6 体高

 前述の石橋孫右衛門『相牛秘伝』にある「およそ背の高さ3尺2寸(注 約97センチメートル)内外をよしとす」とあるように,近世初期(1600年前後)の牛は,現在のものと比べるときわめて小さかった。竹の谷蔓牛の初代の産んだ牝牛は,4歳で4尺2寸(注 127.3センチメートル),その妹牛は4尺1寸(124.2センチメートル)余りもあった。その分れ蔓の大赤蔓の初代牛は4尺6寸(139.4センチメートル)余りであったという。しかし,近世末期,一般の牛は,牝牛で3尺4−5寸ないし7−8寸(103−115.2センチメートル)で,3尺7−8寸もあれば大きい方であったので,4尺以上もあった蔓牛の体格はきわめてすぐれていたわけである。

   7 繁殖方法

 前記の中世初期の石橋孫右衛門『相牛秘伝』に繁殖改良の方法として,次の7項目があげられている。
   1 種牛は,満2歳から6歳までがよい。
   1 牝牛5,6頭まで分娩の子牛をよしとする。これより分娩のものは衰弱するものである。農事に用いるにも困難である。ただし,良牛と認められるものは8頭まで苦しからず。
   1 分娩犢は,牧場へ牽育するのがよい。もっとも日当り東南方へ向い,北をふさぎ,西流通の地がよい。
   1 分娩牝犢が良牛であれば,6ヵ月乳につける。牡牛は3ヵ月ぐらいで離乳してもよい。
   1 牛の交尾するは山林あるいは清水の流れる川の堤防がよい。ただし,牛の性質により衆人の傍観するのを嫌うものがある。なるべく淋しい場所がよい。鳴動または人の集まるところなどは甚だよくない。
   1 カモ牛は分娩しない。(鴨尻牛のことである)ただし,カモ牛とは尻骨の立った痩牛をいう。
 以上は当時すでに使役地帯であった大阪周辺の牛についてのことである。斉藤英策(1965)の『近世和牛経済史』は,近世初期の『農業全書』により,牛馬の繁殖について「生れつきよく,性もよきを選び,牝牡を3月にはいりて共に野に放ちつるませて,5月になりては,また別々にしておくべし。そのまま放しおけば,踏み合いつき合いかみ合いて痛み損じ,よき子を産まぬものなり。さて冬になりて子を産むべき時分は,また,ゆるして遊ばせ自由にすべし。」として,和牛生産地の放牧飼育においては,大部分が一部落あるいは数部落で,牝牡混牧による自由交尾による繁殖方法であったとしている。したがって,一定の畜群内で種畜の選択をしないまま,近親交配になるのが普通であった。このころ,生産技術の進んだ備中国阿哲郡などでは,普通2歳以上の牝牛は放牧しないで舎飼いすることにしていた。舎飼い地帯では,明治初年まで鞍下牛や駄載用の牛は牡牛がおもで,一般農家の牝牛はこれを種付けしてもらっていたのが実情であった。