既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第2章 和牛(肉用牛)の変遷

第2節 和牛の改良と登録

3.大正年代から昭和前期における改良和種時代

(7) 中国縦断和牛調査団

 『牛と飼料を調べて中国の屋根を行く,1933』というアルバムがある。これが,昭和8年(1933)盛夏実施された,いわゆる「中国縦断和牛調査団」の記録である。この調査団の目的は2つあって,1つは主産地の産牛の実情を調査することであり,他の1つは,満州大豆粕の飼料化を図ることにあった。後者については満州(現中国東北地区)における産業助成の見地から,南満州鉄道株式会社(満鉄)が提唱する豆粕の飼料化ならびに飼料としての使用奨励は,大いに普及したが,肝腎の和牛生産地方では昔から牛は米糠と藁で飼うものと心得ていたので,今日果たして豆粕がどの程度まで飼料として使われ,またその将来性はどうかということについて調査研究する目的で,農林省畜産試験場と満鉄とが合流して,中国山脈縦断和牛調査団を組織した。
 調査団長は,畜産試験場技師羽部義孝で,中国各県から団員として1名ずつ参加した。岡山県からは,種畜場千屋分場吉岡長次郎が参加した。のちに岡山県畜産課長となった押野芳夫は,当時満鉄職員として参加している。出発地兵庫県美方郡温泉町で,昭和8年(1933)7月15日から30日までの16日間,中国山脈の背梁を南に北にジグザクに西進し,広島県山県郡大朝町において解散した。岡山県関係の日程と踏破したコースは次のとおりであった。

   第5日(7月19日) 鳥取県智頭町→岡山県津山市二宮→苫田郡奥津→上斎原→恩原(奥津泊り)
   第6日(7月20日) 奥津発→真庭郡湯原→蒜山→勝山(勝山泊り)
   第7日(7月21日) 勝山→新庄→阿哲郡大井野(現大佐町)→千屋(千屋泊り)
   第8日(7月22日) 千屋→鳥取県日野郡根雨(現日野町)

 当時は,脚絆,草靴に麦桿帽子で,連日山坂をほとんど徒歩で踏破した。16日間という長期間,ただただ牛をたずねての行脚は,和牛の改良と登録が軌道に乗って,力強く歩み出した時機とはいえ,今にして思えば,まさに壮挙というべきであり,また,このようなことに専念できた「古きよき時代」ともいうことができよう。