既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第2章 和牛(肉用牛)の変遷

第2節 和牛の改良と登録

5.種雄牛

(2) 郡段階における種雄牛奨励施策

 明治29年(1896)に改正された種牡牛取締規則によって,種牡牛検査を実施するようになってから,種牡牛奨励施策が強化されている。同40年(1907)種牡牛検査法の公布によりさらに施策は刺激を受け,同年種牡牛奨励規程(県令第59号),種牡牛奨励金下付規程等が制定され,種牡牛購入費補助,優良種牡牛に対する奨励金の交付などが一層強化された。郡段階においても改良は意欲的となり,積極的に種牡牛,種牝牛に対する施策が推進されるようになった。たとえば,上房郡は明治40年(1907)3月,家畜奨励規程(郡令第1号)を定め,小田郡畜産組合は大正8年(1919)組合有種牡牛について当分の間1頭当たり100円の購入費を負担することとし,100円をこえるものは受託者の負担(廃用の際100円をこえた金額は受託者に返還)とする制度として,優良種牡牛の普及に努めた。国においても,大正14年(1925)5月,種牡牛馬設置奨励規則(農林省令第15号)を公布(昭和7年,種畜設置奨励規則)し,都道府県または畜産団体の種牡牛設置に対して奨励金を交付するようになった。また,同年6月種牡牛貸付規則(農林省令第16号)を設けて,種畜牧場の種雄牛を都道府県または団体に対して無償貸付する措置を講じた。

   1 阿哲郡

 阿哲郡における種牡牛奨励事業と種付け状況について,松尾惣太郎(昭和30年)の『阿哲畜産史』によれば,明治のはじめごろ,種牡牛の飼養者ははなはだ少なく,郡の南部では付近の農家の飼っている鞍下牛の雄牛の大きいものを種付けに用い,北部では,蔓牛の飼育者は自家生産の雄牛を種付けして近親繁殖を図り,その付近の農家は蔓牛の中の良雄牛を種付けするという実情であった。また,牛馬商は,自己のまや先の牛の改良を図るため種牡牛をけい養し,これを一般に料金を徴して利用させた。このようにして種牡牛を利用する者が多くなって来ると,種牡牛をkり養して副業として種付けする者がでてくるようになった。こうして種牡牛が増加したのが明治20年(1887)ごろまでの状況であった。その後,種牡牛は漸次増加し明治29年(1896)3月種牡牛取締規則が発布されると,ますます優良な種牡牛が飼育されるようになった。
 明治33年(1900)郡制が施行され,郡役所は雌牛所有者に対して種付奨励金を交付し,野合の防止を図り,生産子牛の改良を企図した。さらに36年(1903)郡の事業として種牡牛飼料補助規程を設けて種牡牛飼育者を保護奨励した。これは,種牡牛をけい養するためには相当な資金を要するので,畜産によほど熱心な者でなければできにくいので,こうした奨励施策が実施されたのである。このようにして阿哲郡内に種牡牛が普及しはじめ種牡牛検査法(明治40年,法律第42号)の公布されたときには県有8頭,民有69頭の種牡牛がけい養されていた。
 さらに「阿哲郡畜産組合有種牡牛の設置」については,明治40年(1907)ごろ「千屋牛」の名は広く知れわたっていたが,その実態は体格が貧弱で不均整であったり,毛色も黒のほか赤毛や白斑もあるといった状態であった。組合は阿哲郡産の牛を1つの銘柄として確立を図るため,改良の基本計画を樹立してこれを実施することにした。一方において種牝牛奨励,優良産犢駒育成奨励規程(明治42年)などを設けて奨励金を交付し,一方では,種牡牛頭数を増加するため,種牡牛飼育者に対しても前述のような施策を行なった。このようにしてもなお放牧主体の飼養形態の中で5,6月ごろは野合による受胎が多く,所期の目的を達成することはなかなか困難な状況にあった。
 大正6年(1917)阿哲郡畜産組合は,次のような組合有種牡牛制度を定め,特別会計を設けて,向う12年間に全種牡牛を県有または組合有とする計画を定めた。

   1.この事業は特別会計とし,大正6年から開始し12ヵ年で定数に達せしめ,それ以後は補充更新に止めることとする。
   1.種牡牛の購入は資質,血統の優良な本郡産の中から選抜購入する。
   1.種牡牛は4ヵ年供用すること,各町村の繁殖牝牛数によって適当に配置し,各町村農会に委託飼育させる。

 以上の3項目により,各町村にことごとく種牡牛が配置されたので,個人経営主体のときより次の諸点で業績があがった。

   1.種牡牛が優秀なものになり,生産牛の資質の水準が非常に高められた。
   2.個人有の場合は優れた牡牛があれば,乱用を余儀なくされて良い成績をあげられなかったが,この弊害がなくなった。
   3.牝牛がよくなった。

   2 邑久郡

 邑久郡畜産組合(太伯村神崎 現岡山市)は明治40年(1907)7月,邑久郡産牛組合となったが,同組合は年々数1,000円の種牛購入費を支出した。第一には在来の和種ならびに比較的和種に近い雑種を入れて牛の改良を図り,第二にはホルスタイン種,エアーシャー種および同雑種をもって乳牛を作成する方針をたて,その目的に沿って他府県または海外から種牛を購入し,もっぱら良種の繁殖を図った。これにより,従来岡山県の畜産地と称せられたのは阿哲,川上,後月,苫田,真庭の5郡であったが,漸次邑久,上道,和気,小田,浅口等の諸郡を加えるようになった。

   3 川上郡

 川上郡は明治33年(1900)郡制が施行され,翌34年(1901)の郡予算に種牡牛馬交尾料給与規程を設け,検査に合格した種牡牛馬に対し交尾料を給付し,優良種畜に配合することを奨励した。明治39年(1906)度から合格した種牝牛馬中優秀なものに賞金を出して,当時盛んに行なわれていた野合の弊害を矯正し優良な子畜の生産を図った。明治37年(1904)岡山県種畜場が新設されると,郡では39年(1906)度から県有種牡牛の委託を受け,これに飼養料を給与して熱心家に飼育させて,一般の種付けに供し,牝牛奨励と相まって極力畜牛の改良に努めた。
 明治41年(1908)7月11日,川上郡畜牛組合を創立して,自治団体を組織した(大正15年5月川上郡畜産組合となる)。この組合は創立以来運営よろしきを得て,秩序ある発展をとげるようになったので,明治44年(1911)度からは,従来郡自体の事業としていた種牡牛飼育を組合の事業とし,また,牝牛奨励事業も大正元年(1912)限りで組合事業に移管し,畜産事業はすべて組合で取り扱うことにして,組合に対する補助金を増額した。
 明治34年(1901)以降各年度における畜産奨励補助金等の郡費支出については,原田龍右衛門(昭和2年)の『川上郡史』に表示されているが,大正2年(1913)以後は畜産組合に対する補助として一括交付されるようになっている。

   4 英和郡

 英田郡畜産組合(大正4年に産牛馬組合の名称を改称したもの)の大正年代における主な事業は,技術員設置,家畜市場の建設運営,畜牛共進会開催,牧場設置,県有種牡牛の委託飼育,牝牛馬産奨励,犢駒奨励,優良種牡牛奨励などであった。
 その他県北部の和牛主産地の各郡においても,畜産組合の主要事業として畜産共進会,品評会などとともに,種牡牛設置や委託種牡牛の管理費などがあり,これに対して郡費で補助されるというのが当時の一般的な状態であった。