既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第2章 和牛(肉用牛)の変遷

第2節 和牛の改良と登録

5.種雄牛

(4) 犢牛去勢

 池田類治郎履歴書(明治20年)によれば,明治12,3年(1879−80)ごろすでに放牧牛に去勢を試みていたが,生産地にあっては,一般に久しい間の因習により自由交尾等の弊風がまだ改まらなかったので,種牡牛候補以外の牡犢に去勢を施し,種牡牛奨励法令の及ばないところを補うとともに,肥育ならびに使役に容易にするため,明治32年(1899)から県費による奨励金を下付して,去勢の奨励をはじめた。これを始めた当時は,去勢の効果がよく知られていなかったので,先覚者や一部の畜産熱心家の間だけで行なわれていたが,奨励の効があって,年を経過するにつれて去勢の効果が一般に認識されるようになり,去勢牛を目のあたり見て,性質および肥えいの点で去勢しないものよりはるかに優れていることを認め,去勢を希望する者が多くなった。しかし,和牛の主産地である美作および備中北部においては,まだその効用を認める者が少なく,去勢を希望する者が少なかった。去勢奨励を開始した明治32年(1899)から大正3年(1914)までの去勢頭数および奨励金額は,岡山県内務部(大正4年)の『岡山県畜産要覧』に表示されているが,これによれば,年間去勢頭数50−240頭ていどで,1頭当たり奨励金額は1−2円となっている。ただし,これらは県から奨励金を下付されたものだけであって,このほかにも去勢されたものが多数あったことが,岡山県内務部(大正元年)の『岡山県の畜産』などに記されている。それにしても雄子牛をほとんど去勢する現在からみれば,生産した雄子牛の1−2%が去勢されるにとどまっている当時の状況がしのばれて,今昔の感にたえないものがある。