既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第2章 和牛(肉用牛)の変遷

第2節 和牛の改良と登録

5.種雄牛

(5) 種雄牛の飼養実態

 1 品種の変遷

 明治30年代から40年代にかけて,種牡牛の品種別頭数の推移は表2−2−24のとおりであった。種牡牛検査実施当初において,和種は約130頭で大体県内産で,農耕にも使役していた。雑種は阪神方面からの移入にかかり,主として種用に供されていた。40年代になると和種は300頭をこえ,大体全部県内産で占められ,雑種もまた多くは県内産となった。地方別には,備前および備中南部は,エアーシャー種,ホルスタイン種もしくはこれらの雑種に属し,備中北部および美作全域は,和種がほとんどであって,ブラウンスイス種の1回雑種または退却雑種が少数みられる状態であった。また,デボン種や短角種の血液のわずかに混入したもの,退却雑種となったものがあった。このような傾向になったのは,主として需要供給の関係に起因したようで,備前および備中の南部においては,阪神方面へ乳牛を供給する目的のためにホルスタイン種,エアーシャー種及び同雑種を重要視し,備中北部および美作においては,西向(西牛)あるいは東向(東牛)として,農耕等役用の和牛を重んじたのである。そして,単に肉用として繁殖する地方はなく,前2者の用途に適しない発育不良,体格不備,肢勢失宜のものが肉用に供せられるに過ぎなかった。
 このような実態から,県下における畜牛の用途別区分は,1つは乳用を主として肉用を兼たるもの,他の1つは農耕を主として肉用を兼ねるもの,すなわち乳肉兼用として役肉兼用の2つとされていて,当分はこの状態が続くであろうと考えられていた。したがって当時としては,用途別に改良を図ることが実情に合っているということで,前者に属する地方,すなわち岡山,御津南部,和気,邑久,上道,小田,浅口,都窪の諸郡市にはホルスタイン種,エアーシャー種,および同雑種の種牡牛をもって乳牛をつくることとし後者に属する地方,すなわち阿哲,川上,後月,真庭,苫田をはじめ,久米,英田,勝田,吉備,赤磐,御津の諸郡においては,在来の和種ならびに比較的和種に近い雑種をもって,和種の改良を図ることとして奨励が行われた。
 表2−2−24によれば,和牛改良のための雑種熱は,明治時代でほぼ終息したので,明治42年(1909)には100頭を数えた洋種ないし雑種々牡牛も,大正3年(1914)の10頭の雑種をもって,その後雑種は全く姿を消した。なお,エアーシャー種は,明治41年(1908)まででその導入が絶えたので,以後の洋種はホルスタイン種と見てよいのではなかろうか。

  2 頭数の推移

 岡山県における種雄牛頭数の推移は,明治27年(1894)に33頭(うち和種30頭)であったものが,31年(1898)には176頭(うち和種129頭)に急増している。これは従来の放任状態から29年(1896)に「種牡牛取締規則」が公布されたことにより,種牡牛を選定して種付けするようになったためとみられる。
 明治30年代の雑種熱の高かったとき,和種々牡牛は130−200頭で増加傾向に推移し,種牡牛1頭当たりの年間子牛生産頭数は40頭程度(洋種および雑種々牡牛を含む)であった。同40年代から大正初年にかけては,300頭から400頭(種牡牛検査合格頭数)へ急増しているが,種牡牛1頭当たり産子は30頭程度で横ばいであった。
 大正末期から昭和初期の間は,種牡牛は400−360頭程度で推移し,種牡牛1頭当たりの産子は,依然として30−40頭と変りなかった。昭和10年(1935),作州地域に岡山県では初めてトリコモナス病が発生したため,繁殖障害除去の目的で,人工授精が取りあげられることになった。その第1号として同18年(1942)苫田郡加茂農業会家畜人工授精所が開設された。これは同22年(1947)1月,県の指定を受けている。そのほか上房郡呰部町(現北房町)にも人工授精所が開発されるなどして,漸次一般に普及するようになった。翌23年(1948)には県種畜場(岡山市役所)から久米郡福渡町(現御津郡建部町福渡)へ伝書鳩による精液輸送が成功し,同29年(1954)には千屋種畜場と阿哲郡刑部町(現大佐町)との間で実施に移された。また,家畜保健衛生所法(昭和25年,法律第12号)により設置された家畜保健衛生所に種雄牛をけい養して,単に受胎率の増進のためだけでなく,優良種雄牛の効率的な利用による改良増殖の推進のために人工授精が実施された。このような推移で,昭和29年(1954)には子牛の年間生産頭数は37,780頭と最高を記録し,種雄牛1頭当たり年間子牛生産頭数は208頭となった。昭和32年(1957)岡山県家畜人工授精所(初代所長難波文)が御津郡一宮町(現岡山市一宮)に設立され,翌年1月から業務を開始したので,和種種雄牛の大部分はここと和牛試験場に集中管理されることになった。このため,県内に散在していた利用効率の悪い種雄牛は漸次消滅した。このようにして漸次少数精鋭主義による種雄牛の効率利用は急速に進められた。したがって,種雄牛の頭数は,戦後の200頭台から減少の一途をたどって今回に及んでいる。それでも昭和40年(1965)までは100頭台を維持していたが,同41年(1966)7月1日に県有種雄牛を和牛試験場大佐種雄牛センター(現在の和牛試験場)に集中管理し,同43年(1968)凍結精液に全面的に切り替えた時点で,種雄牛頭は急減し,昭和52年(1977)には24頭になった。
 この間種雄牛1頭当たり年間産子数は,45年(1970)に649頭と最多記録を示したが,その後は子牛生産頭数の減少と種雄牛の減少が平行的となり,ほぼ500頭前後で推移している。なお,最近の肉用種雄牛の品種別頭数はシャロレー種が1−3頭あるほかはすべて黒毛和種で,その繁殖方法別所有者別頭数は,表2−2−28のとおりとなっている。シャロレー種雄牛は,赤磐郡瀬戸町岸本牧場などにけい養されたものであるが,現在は姿を消している。また,民間個人有の数頭が自然交配の欄に見られるが,これは勝田郡内において自己の育成した候補種雄牛を,種畜検査受検後,種畜として販売するまでの間,求めに応じて数10頭の種付けを行なったという,暫定的な変則的な存在に過ぎない。