既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第2章 和牛(肉用牛)の変遷

第2節 和牛の改良と登録

5.種雄牛

(6) 種雄牛の育成

   1 育成事情の変遷

 昭和13年(1938)5月,畜産生産力拡充5ヵ年計画に基づいて「種雄牛貸付要項」が決定され,いわゆる空腹解消を目的とした国有種牡牛の大量無償貸付が実施されたとき,春秋2回の購買に当たり,新見,高梁,成羽,総社,久世,津山の各家畜市場において出陣された育成牛は,新見などに多いところで70−80頭,少ないところでも20頭以上だった。しかし,記述のとおり人工授精が漸次本格化するにつれて,供用種雄牛頭数は減少し,ために更新用の種雄牛候補育成も減少を続け少数精鋭となっている。昭和30年(1955)ごろ,年間80−90頭の育成頭数であったものが,同40年(1965)には45頭と半減し,その後現在までほぼ横ばい傾向で推移している。したがって,種雄牛育成家は少数の特殊技能者に限られる状態となり,昭和52年(1977)度において21名(県種牡牛育成組合員)となっている。最近数年間における種雄牛の育成と販売状況を示せば表2−2−30のとおりである。

   2 阿哲畜産株式会社

 阿哲畜産株式会社(初代社長荻野繁太郎)は,大正9年(1920)7月4日,種牡牛の育成と畜産振興事業をおもな目的として,阿哲郡新見町(現新見市)に設立された。はじめ資本金は20万円であった。
 創立以来組合員に預託して優良種牝牡牛を飼育し,多数のすぐれた候補種牡牛を共進会に出品し,また,県内はもとより,四国,九州の各県に,あるいは関東,東北地方にまで,種雄牛として多数移出し,千屋牛の名声を県内外に広め,本県のためだけにとどまらず,広く畜産振興に貢献した。しかし,種雄牛の需給事情の変遷により,同社の種雄牛候補育成事業は,特定少数のものに限られるようになったので,昭和44年(1969)かぎりこれを廃止した。
 大正10年(1921)に畜産用放牧地として千屋村(現新見市千屋)で山林300ヘクタールを入手し,優良放牧場として多数の牝牛を放牧したが,昭和26年(1951)から植林がはじめられ,現在植林地は300ヘクタールに及んでいる。
 この会社の業績で記録に残るものは次のとおりである。

     中国連合畜産共進会関係

   第9回(大正11年,鳥取市)第13花山号が最優秀賞に入賞。
   第12回(昭和6年,姫路市)第3柳山号が1等賞に入賞。
   第13回(昭和11年,岡山市)第2愛徳号が1等賞に入賞,ほかに3等賞2頭。
   第15回(昭和25年,倉吉市)第6清国号が1等賞1席,2等賞1頭,3等賞2頭。
   種雄牛の育成とその仕向先(記録に明らかな昭和25年以後について。このほか北海道,沖縄へも移出したが記録が残っていない・・逸見徳次郎社長談)は表2−2−31のとおりであって,これを見れば時代の変遷に感慨ひとしおのものがある。