既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第2章 和牛(肉用牛)の変遷

第3節 和牛の能力利用

1.役利用

(2) 昭和年代における畜力利用

   1 有畜農業奨励と畜力利用

 昭和6年(1931)満州事変の勃発により多数の軍馬の徴発があった。また,同年有畜農業奨励規則(省令第16号)の公布により,畜力利用は大いに盛んになった。有畜農業奨励規則による施策に畜力利用施設に対する2分の1補助があり,これが畜力利用の推進力として大きく作用した。岡山県内務部(昭和9年)の『岡山県畜産要覧』によれば,畜力利用の増進に関する施設について,
  「これがためには犁,砕土器,除草機,畜力原動機,脱穀機,籾摺機等の畜力機を設置して,組合員の共同利用に供し,また必要に応じては,役畜を飼養して組合員に貸付利用せしむる等の方法を講じつつあり。」と述べられている。
 昭和6年(1931)には姫路市において中国6県連合畜力利用競技会および牽引能力査定会が開かれた。
 ところが,くしくも有畜農業の奨励を打ち出した昭和6年(1931)に,はじめて統計上動力耕耘機98台が記録された。これは,昭和14年(1939)には2,819台に増加したが,その後,第二次世界大戦によりエネルギー事情から一時後退して,和牛の畜力利用はその重要性を増した。また,このころ,役用能力の高い朝鮮牛の移入も多かった。
 第二次世界大戦の長期化の中で,昭和17年(1942)国有林における木材運搬のため,徴用された馬にかわって役牛が当てられることになったので,同年8月農林省畜産試験場中国支場(現中国農試畜産部)において,営林署関係職員に対して「和牛の飼養管理ならびに使役技術についての講習会」が実施された。
 このような情勢の中で,畜力利用は終戦後も一時拡大された。昭和25年(1950)岡山県農村振興推進本部(昭和25年)の『農村振興のしおり』には,和牛はもちろん,乳牛の役利用をも唱導している。

   2 農業機械化による畜力利用の後退

 昭和20年(1945)終戦時における全耕地面積に占める畜耕面積の比率は,田74.8%,畑53.2%と統計の上で最高の数字を示した。ところが,戦後の復興なった昭和28年(1953)になると,耕耘機の普及はめざましいものがあり,とくに岡山県南部,福岡県筑後平野,新潟県蒲原平野など米麦作の盛んな畜力利用の多い地帯にこれが多く導入され,畜力利用は後退のきざしを示し,やがては昭和30年代に入って和牛頭数の減少へと移行することになったのである。その後も,食糧増産に従属した畜力利用から,労働の軽減能率化,生産費の低減,経営規模拡大と経営の集約化などの見地から農業の機械化が強調され,大型トラクターによる土層改良事業,牧野改良造成事業が行なわれることにより,一方においては,和牛の肉専用化の問題があり,畜力利用はほとんどその姿を消した。昭和52年(1977)における岡山県の乗用トラクターおよび耕耘機の普及状況は,農家100戸当たり86.5%の高率を示すに至った。「動力耕耘機が畜耕に対して経済的優位性を示すのは,耕耘機の稼動面積が4町歩を超える場合である」との導入限界原則が無視されて,このような状態になったのは,1つには農家経済の変容により,農外収入を求めて出稼ぎなど,農外就労の機会が多くなったため,耕耘機そのものの稼働率を無視して,農作業を早く終ろうとするための導入となり,機械を導入したために資金かせぎに出稼ぎをしなければならないという悪循環が起こり,いわゆる機械化貧乏を招来するはめになったという一面も否定できない。