既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第2章 和牛(肉用牛)の変遷

第3節 和牛の能力利用

2 肉利用

(1) 明治年代における牛肉の消費

 明治時代になると,勧業と保健との両面から,乳肉の消費を奨励した政府は,自ら明治2年(1869)東京築地に牛馬会社を設立し,乳肉生産販売業を大蔵省通商司に経営させ,牛肉を芝の露月町「中川」で売った。これがわが国における牛鍋屋の元祖である。
 開港場である神戸には外国人も多く,肉食が早くから盛んであった。岡山の場合も牛肉を食べる先鞭は外国人がつけている。明治3年(1870)上道郡門田村(現岡山市)に医学館が設けられ,ここに教師として招かれたオランダ人ボードウインが牛肉を食うことを勧奨した。郷土史家の岡長平によれば,ボードウインの来岡は明治元年(1868)であったが,当時はすでに牛肉を入手するのにさほど苦労していなかったという。なぜかといえば,肉食の禁止されていた時代でも,津山の「養生食い」は,彦根のそれと並んで,その本場とされ,大山牛馬市へ往来の途中,津山へ泊った博労なども好んで食べたということである。陸軍参謀本部(明治12年)の『共武政表』(下巻)には,村落ごとに当時の主要物産があげられているが,その中で,津山市街,東南条郡川崎村(現津山市)に牛肉が見える。神戸牛は岡山県からも出荷されるものが多いが,維新前後東京や横浜で牛肉を入手するのに苦労したのにくらべて,神戸では津山の「養生食い」のおかげで余り苦労しないで牛肉を手に入れることができたということである。明治3年(1870)英人の電信技師を知事が後楽園で招待したときも,焼肉や肉汁でもてなしたということである。肉食礼讃は,当時アメリカから帰朝した若冠25歳の師範学校長能勢栄や山陽新報社や商法講習所へ来た若い慶応ボーイなどによって盛んに行なわれた。
 しかし,はじめは牛肉を食べると角がはえて「モー」と鳴くようになるのではないかと,一般人はなかなか口にしようとしなかったらしい。岡山で最初の牛肉店は,東中島の「開花樓」であった。これはもと「備初」(備中屋初太郎)という刀剣を取り扱う名代の老舗であったが,時節の変化に対応して明治9年(1876)転業したもので,その変身ぶりに人々は驚かされた。明治11年(1878)山崎町の「鹿林(志賀林)」は,酒井伝吉という士族の牛肉店で,ここでは,鹿,猪,猿などの肉の味噌煮を食わせた。京橋東詰め北側に「烏帽子樓」という3階建の肉屋が,野面という士族によって開店された。西田町の「黒崎亭」,野殿町の「招客亭」,中之町の「明富士」,山崎町の「一ツ星」,西中山下の「可声」等々とつぎつぎに牛肉店が開業され,明治14年(1881)10月11日の「稚児新聞」によれば,牛肉店は52店の多きを数えている。
 明治17年(1884)に岡山区天瀬の牛肉商鳩谷古市ほか2名が発起人となり,区内牛肉商一同蓮昌寺に集合し,「牛肉の値段,売上げ高の届け出などについて不都合のないようにしよう」と協議している。牛肉の消費が伸びて高値となったこと,不心得な営業をいましめることなどのためにしたことであろう。当時の統計をみれば,表2−3−2のように岡山県の畜牛屠殺頭数は全国的に見てかなり高い水準にあった。明治19年(1886)における屠殺頭数は,4,140頭で全国第6位にあり,1頭当たり平均枝肉量350斤(210キログラム)として,県民一人当たり平均1.05斤(0.63キログラム)の消費量で,全国第1位となっていた。明治14−15年(1881−82)ごろ牛肉のみそ漬,佃煮,おぼろ煮(缶詰)が岡山名物として登場して好評だったということである。昔から岡山はよい牛肉を食わせる土地がらだったようである。
 明治17,8年(1884−85)になると本格的に肉食が一般化しはじめた。これは,明治6年(1873)の徴兵令発布以来,軍隊で肉食の味をおぼえて帰郷した者から広がった。しかし,当時の一般家庭ではご位牌に相すまないということで,納屋や土蔵あるいは戸外で牛鍋を食った。
 明治17年(1884)12月17日の山陽新報に「店売りと行商(肩に木箱をのせて「肉屋,肉」と呼んで売り歩いた)を合わせて牛肉屋204軒,売上量1カ月300貫(注 1,125キログラム)」とある。明治19年(1886)8月10日の山陽新報の寄せ書き欄に「肉屋の改革を望む」という題で「3人で肉屋にはいり,肉5人前,酒7本,卵21個をたいらげ,さて帰ろうと,勘定をきいたら80銭だった。こちらのほろ酔いにつけこんで暴利をむさぼるとは,憎むべき行為である。」ということであった。ちなみに,この年の米価は石当たり4円90銭であった。
 軍隊における肉食の慣行で,明治19年(1886)に軍用向け肉牛購買について,農商務省は京都府など21府県に照会したとあり,前述の表2−3−2によっても同年の屠殺頭数は甚だしく多かった。
 明治20年(1887)の秋,岡山区で売りさばく牛肉の値段は100匁(375グラム)当たり上等肉3銭3厘が5銭5厘に,中等肉2銭8厘が4銭5厘に,3等肉2銭3厘が3銭5厘に値上げされたので,牛肉党がやかましく,非難ごうごうとなり新聞は筆を揃えて攻撃した。山陽新報の11月14日の社説に「食肉論」として,牛肉の値上げの不当を論じ,「国民保健衛生上からも,ゆゆしき大暴挙といわなければならない。」とし,「幸い岡山は山海の佳肴に恵まれているので,しばらく食肉を廃し,彼等不逞の徒に大懲罰を加えるべきだ。」と結んで,牛肉不売運動を唱導している。
 明治21年(1888)5月,岡山区の牛肉消費量は,1日3頭位で,値段も相当高かった。このころ魚島に魚類の出荷が多く,牛肉の消費は3分の1に減少した。値段は卸売りで1貫(3.75キログラム)当たり上等5円50銭,中等5円,下等4円50銭ぐらい(山陽新聞社史編集委員会(昭和44年)『山陽新聞90年史』)であった。この年の米価は石当たり4円04銭であったから驚異的な高値であったわけである。同年9月20日の東京家畜市場会社調査による東京相場は次のとおりであって,これと比較しても,高過ぎるので記録のまちがいではないかと疑われるほどである。

     牛肉1斤(600グラム)当たり,最上ヒレ30銭,ロース24銭,中等18銭,下等13銭
ついでに,比較のため,馬,豚,羊肉の価格を示すと次のとおりである。
     馬肉 上等10銭,中等8銭,並等6銭。
     豚肉 7銭
     羊肉 26銭

 卸売価格の高かった明治40年(1907)は,1斤(600グラム)当たり平均,牝牛肉29銭,牡牛肉27銭で,同44年(1912)には,これらは20銭(1キログラム当たり33銭)以下に値下りしている。