既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第2章 和牛(肉用牛)の変遷

第4節 和牛の子牛生産と育成

延慶3年(1310)の『国牛十図』,応安のころ(1368〜69)の『駿牛絵詞』にあげられていた牛の主産地は,近畿,中国,九州など西日本がおもであった。しかし,この時代には,まだ,中国山地は主産地ではなかった。ずっとさかのぼって,延喜式(927)にあらわれる民間の牛飼育地の中に,備前国があげられていた。備前国児島郡味野村(現倉敷市児島味野)および雌雄島など瀬戸内海沿岸の島嶼郡は,宝永のころ,(1704〜10)まで,多頭飼育による生産育成地帯であった。宝永4年(1707)に味野村では全戸数103戸,全牛数171頭で,牛のいない農家は26戸であり,全体の4分の3の77戸が牛を飼っていて,1頭飼いより2頭飼い以上の方が多かった。
 中世以前に広く行なわれた放ち飼いは,近世になるとかなり後退したとはいえ,古くから牧野には相当の保護が加えられていた。明暦19年(1642),岡山藩では,入会い草刈場に小松が繁茂して草生が害されることのないように,吟味しながら山を森林化するようにと,郡奉行に命じている。ところが,宝永年代(1704〜10)になると,農民の利用をしめだして,森林化するようになったので,農民の反対訴願が頻出した。このようにして中世以前に広く行なわれた牛の放牧飼育は,近世になると,かなり後退を余儀なくされている。当時,岡山周辺の牧野,採草地となった山は,擢山(操山),半田山,津島山,竜口山などであった。
 延宝7年(1679),岡山城下町周辺の牛馬飼養は貧弱であって,岡山藩の家数は45,000余,これに22,000余頭の牛馬が飼われ,その90パーセントは牛であった。なかでも,城下町に近い御津郡,口上道(現岡山市)では,牛馬飼養率および牛馬の中に占める馬の率は,はなはだ低かった。たとえば,津高郡尾上村(現岡山市)は,延宝九年(1681),家数93軒,牛数33,馬3というように少なかった。
 さて,藩政時代までは,牛の頭数や耕地面積に比べて,牧野,採草地の面積が大きかったので,草は飼料だけでなく,堆きゅう肥の材料として大量に利用されていて,牛の牧野,採草地への依存度は,明治以後におけるよりも大きかった。

1 明治年代以降における子牛生産基盤の推移

  (1) 地租改正条例の公布と牧野,採草地の減少

 明治6年(1873)に地租改正条例が公布されると,所属の明確でない入会地などは公有地となったものが多かった。この公有地も,初めは従来の慣行どおり入会放牧採草が認められていたが,31年(1898)には国有林野への放牧が禁ぜられて,牛馬の飼養基盤が著しく制約を受けることになった。

  (2) 開墾の進捗と鉄山業の衰徴による牧野採草地の減少

 明治中期から大正初年にかけて全国的に開墾が盛んとなり,牧野採草地面積の減少を見た。また,中国山地は古い砂鉄の産地であったが,阿哲地方において明治40年代まで続けられた製鉄業が廃業となると,製鉄用薪炭林も植林されて,牧野採草地の急減を招いた。

  (3) 農場副産物の増加と子牛生産地帯の拡大

 和牛は,その後耕種農業に従属する関係が次第に明確となり,畦畔堤塘の野草や稲藁など農場副産物への依存度が高まり,有畜農業的傾向が強まって,子牛生産地は,県北山間部から次第に中部平坦部へと地域が拡大された。

  (4) 第二次世界大戦後の牧野採草事情の変遷

 大正末期から昭和初年にかけて,植林事業の推進による牧野面積の漸減と,管理不良による牧野の荒廃に対して,国および県の助成を受けて,年々牧野改良事業が実施された。
 戦後,本格的な草生改良,牧野造成が施行されるようになったのは,昭和25年(1950)5月20日,牧野法(法律第194号)が公布されてからであって,これにより,子牛生産基盤の著しい変化がみられるようになった。昭和30年代になると,耕運機の普及が著しく,一方,食肉需要の急増に対応して,平坦部で肥育が盛んになり,子牛は,肥育素牛として発育のよいものが高く評価されるようになった。この傾向は,昭和40年代になると,ますます顕著となり,そのため,子牛の放牧は大幅に減退した。すなわち,従前の奥山への粗放な放牧を廃して,里山放牧とし,あるいは,放牧場において別飼い(クリープ,フィーデング)を行ない,あるいは周年舎飼いとするものが多くなった。
 一方,安価な牛肉生産をねらいとして,広大な造林地放牧による肉用牛子牛生産育成を推進するため,昭和42年(1967)度から混牧林経営肉用牛生産促進事業が,全国10ヵ所の国有林において着手された。この中に,同年10月1日に事業を開始した大阪営林局新見営林署担当の新見牧場(新見市用郷および阿哲郡大佐町)がある。