既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第2章 和牛(肉用牛)の変遷

第4節 和牛の子牛生産と育成

2 藩政時代の和牛の飼い方

  (1) 放牧

 放牧には山野放牧と,秋から春までの耕地の刈跡放牧とがあるが,西日本では二毛作の進展により後者は縮少した。中国山地では,近世とくに山地への放牧飼養が盛んであった。これは,自然の立地条件が好適であったためであるが,とくに,社会経済的条件として,近世初期から発展のめざましかった鑪製鉄との関係を見逃すことはできない。山林は,製鉄用薪炭林として伐採され,その跡地は,火入れをして放牧地として利用された。製鉄業を中心に,早くから開けた貨幣経済の一環として,牛は商品化され,放牧飼養を中心に先進的な産牛地を形成していた。中国山地の子牛生産地帯では,このように盛んに放牧飼養が行なわれたが,使役地帯では舎飼いがおもであった。
 備中阿哲郡北部の山間部においては,春秋2期の昼夜放牧が主体で,春は百夜前30日ごろ(4月上旬)から放牧を初め,盛夏期(7月下旬土用入りから210日ごろまで)は,舎飼いして,牛馬を休養させながらきゅう肥を踏ませ,秋にはまた放牧し,晩秋(11月下旬)まで山においた。牛が雪を着ることもあったので,「雪下牛」ともいわれた。このように,春秋2期の昼夜放牧を「春山」および「秋山」といい,盛夏期の舎飼いを「夏まや」といった。このほかにも,日飼いとして冬季においても,山の雪の消えたところへ牛を出して運動させ,笹を食わせたりした。日飼いの時,凍傷にかかり爪がぬけるものもあった。また,春さき霧酔病にかかることもしばしばであった。
 放牧中は濃厚飼料は全然与えなかった。牛の飼養者は,自分の牛を見に,ときには山へ行った。そのとき,竹の皮に包んだ塩,味噌,漬物などを携行して,牛に塩分を補給した。
 2歳以上の牡牛は,放牧されなかったが,それ以下のものは放牧されたので,放牧中自由交尾により,山で分娩するものも多く,秋下山するとき,放牧地で生れた子牛をつれて帰るものも多かった。山で育った子牛は,体躯矮小,性質温順,体質強健,動作軽快であった。
 放牧場は,普通田畑,家屋敷を除くほかは,山野のすべてが牛飼い場であったので,田畑の周囲や家の廻りに柵をめぐらせ,一村あるいは数カ村の牛が共同放牧により,自由に歩き回った。家および付属畑を囲んだ柵が「柴垣」であり,村落,耕地を一括して囲ったものが「大垣」であって,柴垣は「野飼い」または「放飼い」といわれる刈跡放牧を行うためのものであり,「大垣」は夏季の山野共同放牧から耕地の作物をまもるためのものであった。この放牧方式は,阿哲郡北部(千屋,新郷,神代,矢神,新砥,上刑部)真庭郡(新庄村)苫田郡(香々美北村,上斎原村)などに行なわれ,昭和30年代まで続けられた。そのためバスその他車輌のとおる県道の真ん中などへ,牛が群をなして歩き回ったり,寝そべったりして,じゃまをすることもしばしばで,甚しきは,薄暮家路へ急ぐオートバイが道の真ん中に寝そべっていた牛を避けようとして,谷川に転落したという死亡事故さえあったという。その後,道路交通法により,きびしく取り締られるようになって,この放牧方式は姿を消した。
 作物収穫後行なう部落共同の刈跡放牧は,一毛作地帯である標高の高い吉備高原地帯などにあったが,明治末期,水田裏作に「れんげ」が導入されるようになって,行なわれなくなった。真庭郡新庄村田浪,二ツ橋など標高700メートル以上のところに遅くまで残っていたが,昭和初年に廃止された。
 さて,ここで放牧牛の取締りについてみると,天正のころ(1587〜91),備中吉川領の牧牛処置は,作毛を損じたときは,牛の持主が作主に損害を払わなければならないことを領主がきめていた。これが他村関係になると事はめんどうになった。安政のころ(1854〜59),備中釜村の土岐嘉五郎の持牛が,隣村農家の作物を食い荒したとき支払った賠償は,永銭150文であった。このときの仲裁は,村と村との間で行なわれた。村内であれば,お互さまということで,わずかのことですませたという。
 中国山地でみられる夏まやは,住居に付設されたきゅう舎で舎飼いされるものばかりとは限らないで,山間の耕地の近くに「野まや」を設け,そこで田付山の山野草による夏飼いを行ない,きゅう肥運搬労力の節減をはかったものも多かった。