既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第2章 和牛(肉用牛)の変遷

第4節 和牛の子牛生産と育成

2 藩政時代の和牛の飼い方

(2) 舎飼い

   1 飼料

 作州の『農業子孫養育草』には,「先此辺にては山野の草は申に及ず,年中糖類,藁,大小豆のから,稗粟のから切こしらへ,ぬかへ交りけん縄草(牛の食ぬ草類也)あしき草を除きて干,又青刈の時を考へ,扱水の飼やう朝夕のかげんあり,(夏土用中は昼の水呑てよし)白水棚下の洗水等猶以て冬春の飼料別して大事なり,春の牛やせたる家は必ず身上のあしきものなり」(小野武夫『近世地方経済資料』4巻を斉藤英策(1965)の引用したもの)とし,飼料は,山野草と耕種の副産物を主体とし,分娩期でもある春に牛をやせさせないように,冬から春にかけて良質の飼料を給与することの必要性を説いている。
 夏飼いの飼料は,主として畦畔の青草で,使役時にはこれに麦類のほか,穀類の屑,糠類を与え,また,敷料として多量にきゅう舎に投げこまれる柴草ももちろん栄養分の補給になっていた。
 冬季の飼料は,備中阿哲地方では,稲藁を主とし,麦桿,大豆葉,粟桿,乾菜,藷蔓,乾笹,乾草,粃籾などであり,これらは煮て給与した。
 以上のように,近世の和牛の飼料構造は,放牧地を除いては,稲藁,畦畔草,その他農場副産物など,耕地からの生産物への依存度が,原野草より著しく強くなっている。しかし,飼料専用作物の作付けは,まだ極めて少なく,他の目的の農作物の副産物が,飼料として利用されたのであった。飼料の供給量は,耕種生産の規模と様式により規制を余儀なくされていた。例えば,阿哲郡で一般の農家が11月の終りから翌年4月末まで,稲藁だけで牛を飼うとすれば,郡の中央部で田2反に牛1頭,田5反で牛2頭ぐらいが普通であった。したがって,これ以上の頭数を飼うためには,放牧期間をのばしたり,あるいは他に山野草などがなければならなかった。こんな状態の中で,産牛地の飼料として,牛の保健および資質の向上の見地から,野草は最良のものであった。
 津山藩の『作州地方法令』「作州遣い牛之事」には,「里方にては度々牛損し候事なり,山中の牛はかやなどの様成る味薄き草喰候ゆえ無病候へき,里方は草も山中と違ひ厚味なる草喰候ゆへ牛の立やはらかにて,里方は牛の損し多く相聞候,山中にて能をたち申,夫故当国に而者山中より多く牛の子事古昔の事なり」(『美作史料』(第一)を斉藤英策(1965)の引用のもの)と述べている。したがって,5〜6頭の飼養は,牧野,採草地に恵まれた大耕作者でなければできず,それ以上の大牛持は,草地が多く,しかも,牛小作として他へ貸しつける形でなければ成立しなかった。
 使役地帯の飼料給与については,牛1頭当たり年間麦2石が必要とされていた。山村では山野草への依存度が大きいため,給与量はこの半分以下ですんだという。

   2 飼料給与方法

 舎飼時,稲藁および野乾草などは,細切して糠などと混ぜ,中国地方では,煮飼いにするのが普通であった。今考えると全く不必要な煮飼いは,飼養労働力を多くし,燃料採取労力および燃料源となる土地を多く要し,飼養規模をこの面からも制約していた。
 給水は,川へつれて行くか,容器に入れて与えるかした。時に庭さきに牛をつないで牛体の手入れをし,日光浴をさせ,またひき運動をした。しかし,手入れのよく行きとどいたのは上層農家のよい牛に限られていたということである。
 作州の『農業子孫養育草』によれば,「其家の主たるものは大家・小家とも牛を大切にすべし,下人まかせにすべからず」,「牛は其家の妻女たるもの飼やう心掛べし,男たるものは,外へ出るものゆへ行届ぬ事あり」とあり,飼料の調理,給与,給水および牛の手入れなど,日常の飼養管理は,おもに婦女子,老人の仕事で,ことに中層以下の小頭数飼育の場合,嫁にその仕事が割りあてられることが多かった。地主の家では下男,下女にこの仕事があてがわれたが,阿哲地方の産牛地では,井原村(現新見市)の安藤家のように代々下男まかせにせず,主婦が手入れをしたという熱心さであった。
 牛舎からのきゅう肥の搬出,乾草刈りなどには,婦女子も出るが,成年男子ももちろん協力した。放牧中の自家牛の見回り,塩分補給,交尾などは成年男子の仕事であった。

   3 管 理

     牛舎(きゅう舎)

 内まやが普通であった。竹の谷蔓牛を造成した備中竹の谷(現阿哲郡神郷町)の難波家の旧居宅および牛舎の見取図は,図2−4−2に示すとおりである。内まやの一室は,九尺まやといい,一間半四方に区切られるものが多く,図のように内まや六房ある居宅は,大きい方であった。1房に成牛1頭を収容するが,哺乳子牛は,もちろん母牛とともに1つ牛房に,また,2,3歳の育成中のものは2頭を1房に入れた。
 白昼でも,土間に一歩踏み入れると,家の中は暗く,暗い中にゴソゴソと牛がうごめき,牛の眼球だけが光る光景を思い出す者も多いと思われる。居間には「いろり」があり,寒い冬の間は,たき火の消えることはなく,牛は人とともに暖をとった。正月には雑煮を人とともに祝うというぐあいで,牛は家族の一員として愛育された。
 母屋のほかに,図2−4−2のように,納屋兼外まやを設けた。阿哲郡南部では,まやはすべて納屋に取り付けられていた。

 大牛持などが,寒さなどにより放牧牛をにわかに収容するとき,あるいは預け牛を寄せ集める時,臨時に必要に応じて仮まやを設けた。
 野まやとは,夏まやのとき,居宅から遠距離にある持田のそばに,きゅう肥を踏ませるために設けた牛舎で,一定期間牛を収容するだけのきゅう肥製造所であった。

     放牧管理

 放牧中は,部落の組合で輪番制として,牛のけが,病気,失踪,盗難などについて,見回りをした。数カ月もこのような状態では心配なので,飼い主が,時には持牛を見回りに行った。味噌など塩分を持参し,牛の名を呼んで塩分の補給をした。牛の様子によっては2,3日家につれて帰って休ませた。

     矯 角

 中国地方の産牛地では,矯角は重要な育成技術であった。とくに岡山,広島両県がやかましく,西牛は,「体半分角半分」といわれていた。牡は「逆八字」型に,牝は「い」の字型に,前上方へ形よく向いていることが大事であった。現在でも種牛では矯角を施すが,多頭飼育に便利なように,除角することもある。自然に放置しておけば,牛によって角の大きさや形がいろいろあるので,生後7ヵ月ぐらいから,角の伸びぐあいを見ながら,特殊の器具を用いて適宜矯角する。

     削 蹄

 役牛として肢蹄の堅牢なことの重要性は,もっぱら肉用となった現在の肉用牛の比ではない。離乳後第1回の削蹄を行ない,放牧や運動などを課して,肢蹄を鍛えるとともに,時々不正磨滅を矯正して,大きく厚く,お椀を伏せたような蹄に仕上げることが,牛の能力を十分長く発揮させるために重要であった。

     手入れ等

 「牛は手マメで飼え」とか「垢1升,糠1升」とかいわれ,牛体はいつもよく手入れして,健康に養育することを誇りとしていた。また,種牛などは,朝夕川入れと称して,牛に曳運動を課すとき,小川にひき入れて,肢蹄を清潔にし,時には牛体を清洗した。

     離 乳

 天正(1573〜91),元和(1615〜23)のころの石橋孫右衛門の「相牛秘伝」の中に,次の1項目がある。すなわち,「分娩牝犢牛良牛ならば6ケ月乳付すべし,牡牛は3ケ月位で乳を放すべし」と。
 昭和10年代になっても,将来種雄牛となるほどの血統,外貌を備えた雄子牛は別として,一般の雄牛は早くは90日齢から120日齢で離乳して,せり市へ出された。早く離乳して,母牛の損耗を少なくし,次の産子に期待しようということであった。雌子牛の場合にも,通常150〜180日齢で離乳していた。
 現在のように,肉用もと牛として,発育のよいことを要求するということではなく,当時は,体格が少しぐらい小格であっても,よく鍛えられて,持久力のある,体の緊実な牛が要求されていたので,子牛に別飼いすることもなく,ひたすら粗飼粗食に耐えるような育成方法であった。

   4 敷料ときゅう肥

 『清良記』に田地一町を経営するには,牛馬2匹は欠くことができないとあるのは,畜耕との関係を示すとともに,きゅう肥利用の関係からでもあった。もともと舎外飼育から舎飼いに移行したのは,主として作物栽培管理の集約化に伴う採肥の必要からであって,近世に至り,農耕の集約化につれてきゅう肥利用が一段と進められた。
 『農業全書』(1697)は,「扨風雪のふせぎをよくし,糞を段々堆く打ちかさね,牛馬の数多きものは小山の如く積みおくべし。春になりては1疋の牛馬のふみたる糞大かた田地5反ばかりはよく肥すべし。是先づ農家ごとの必ずつとめてたくはへ置くべき物なり。」として,牛馬1頭当たりのきゅう肥の量と施肥面積を示しているが,金肥のなかった時代におけるきゅう肥施用量は,非常に多かったことがうかがえる。
 備中の産牛地田渕村(現哲多町)の享保20年(1735)の『差出明細帳』には,「田に草芝並作物から,年中牛馬にこやし踏せ,別して悪田には下肥何角芥迄色々成物用申候,畑には右大略同断,土性悪敷村柄故,何らこやし用兼申候に付,柴草等牛馬に踏せ,灰に焼き,下肥にてくもし色々と仕」とあり,きゅう肥と下肥が肥料として重視されていた。牛の1頭1日当たり生草給与量は,8〜10貫(30〜37.5キログラム)でよいところを,朝草刈期間中30貫ぐらいもきゅう舎に投げ込むので,牛が採食するのは3分の1ぐらいで,ほとんどがきゅう肥となり,3日おきぐらいに取り出していた。このようなきゅう肥生産に対応する舎飼方式として「掘まや」構造があった。
 水田に採草地(田付山)が付随する場合が多く,耕地1反につき400〜500貫(1,500〜1,875キログラム)の山野草を必要とし,そのため1.5〜2反の山野面積が必要となっていた。
 夏まや期間中は,きゅう肥生産のための朝草狩りに,早朝4時ごろから起きて山へ出かけるのが,男の仕事であった。刈り取った草を野まやや住居まで運ぶとき,近いところでは人が背負い,遠いところでは牛馬に背負わせた。昭和30年代後半になって,県北地方にも耕運機が普及し,次第に牛を農作業に使役しなくなると,朝草刈りの習慣もなくなり,機械と購入肥料へ依存する現在の農業に移行して行った。
 明治以前は,和牛の山林原野への依存度が大であったが,明治年代になると,山麓刈草地帯でも,木材需要の増大により採草地が植林の対象となり,他方では耕地への金肥の施用,または,れんげなどの導入により耕地生産力を増し,和牛の耕地への依存度が大となった。