既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第2章 和牛(肉用牛)の変遷

第5節 肉用牛肥育事業の進展

1.明治年代における肥育

 明治17,8年(1884−85)ごろから,陸海軍が肉食を採用したのを中心として,肉食は一般市民の間に普及するようになった。
 岡山県における成牛屠殺頭数は,明治16年(1883)の2,327頭から,翌17年(1884)には4,630頭と倍増している。当時の食肉は,広域流通する商品ではなかったので,屠殺頭数は,そのままその地方の消費量につながるものとみてよかろう。全国的にも,明治15年(1882)当時まで35,000頭前後であった牛の屠殺頭数は,17年(1884)には90,000頭,18年(1885)には116,000頭と急増している。それまでは,ほとんど老廃牛の屠殺であったが,このごろから滋賀,兵庫,三重,山口,愛媛,香川の各県の一部に肥育が行なわれるようになった。しかし,大正初年まで肥育は大して発展せず,成牛1頭当たり枝肉生産量は,100キログラムから150キログラム程度で推移した。日露戦役の勃発により,明治37年(1904)には,県内の屠殺頭数は15,000頭をこえ,一挙に前年の3.6倍となった。このため,明治36年(1903)92,000頭であった畜牛頭数は,38年(1905)には81,000頭に減少し,農家は農耕に支障を来すほどであった。しかし,戦後の不況により,一時消費も減退し,明治40年(1907)には,屠殺頭数は,3,000頭を割り,畜牛頭数も42年(1909)には90,000頭台に回復した。
 『牧畜雑誌(第1号)』(明治21年8月)に,「m馬の放牧について」と題して,山陰牧夫と名のる牧畜業者の述べるところによれば,「(前略)大津の車牛は,この地方で老年になれば屠殺用に供する。紀伊,和泉両国では,m馬の国から輸入した絶乳(離乳)牝犢(生後およそ10ヵ月ぐらい)を,3,4歳まで農家に畜養し,そのよく生長肥満せざるを待って,山城,摂津,近江,伊賀,伊勢等の諸国へ輸入し,これらの国においては8,9歳まで使役に供し,これをよく肥満させて江州の大津,草津もしくは尾州の名古屋近辺に引き出し,これを東京,横浜等へ輸送し,屠殺用に供するものなり(後略)」とあって,これにより当時の肥育先進地の概要をうかがうことができる。
 岡山県における,明治30−40年代における畜牛飼育概要に,「単に肉用としては繁殖するの地方なく,乳用または耕用の用途に適せざる発育不良,体格不備,肢勢失宜のものの肉用の目的に供せらるるに過ぎず」(岡山県内務部(昭和9年)『畜産要覧』)とあり,当時は専ら低能力の廃用牛が,肉に供されていたことがわかる。
 岡山県家畜商々業協同組合理事長水内潔の語るところにより,明治年代からの岡山県内の肥育事業の概略を記せば次のようである。
 岡山県で肥育が始められたのは,明治の末期からである。大正初期に肥育地帯といわれたところは,かって育成地帯であった現在の総社市,吉備郡,御津郡南部に位置する地帯であって,高梁川以東に限られていた。すなわち,御野郡大野,今,福浜,福田の各村,津高郡一宮村(以上いずれも現岡山市),都窪郡菅生,帯江,豊州,茶屋,庄の各町村(以上現倉敷市),邑久郡鹿忍村(現牛窓町),赤磐郡南方村(現山陽町)などであった。そして,次第にこれらの周辺に広がり,児島郡,和気郡の一部にも肥育農家が散在するようになった。御野郡産の肉牛は「御野郡牛」といわれ,県内外で一つの銘柄牛となっていた。
 当時のもと牛は明3,4歳から6歳程度の雌牛で,これらは高梁家畜市場を主として,和気市場などから秋季に肥育農家へ導入され,おもに県北産の黒毛和種であった。これらは,翌春農作業に使役されながら短期に仕上げられ,岡山家畜市場を主として,6月の野上げ牛市で売却された。藺草という多労的作物との労力の競合を回避するため,急いで売られた。
 野上げ市では,おもに肉牛が取引きされ,通常の市日には50頭ぐらいの入場頭数のところが,300頭ぐらいも入場して,盛況であった。京阪神方面からの食肉業者や家畜商による買いつけが多く,また,名古屋方面へ鉄道輸送されるものもあった。
 仕上げは,枝肉重量50貫(187.5キログラム)ぐらいを普通とした。取引方法は,生体をみて枝肉重量,肉質を推定して,売り手,買い手双方が相対で相場をきめた。このとき「ばんぞう人」が仲介した。
 当時は,1頭飼いがほとんどで,2頭飼いもまれにはあったが,3頭以上の肥育農家は皆無という状態であった。牛房は内まやで,うす暗くして,通風もよくなかった。飼料としては,大豆粕(豊年),大麦(押裸麦)を,日量3升から1斗ぐらいを煮て,切り藁に混ぜ,1日2〜3回給与した。いわゆるサブ飼いであって,飲水は別に給えなかった。
 肥育飼料として大豆粕が利用されだしたのは,明治29年(1896)からであるが,大正5−6年(1916−17)ごろまでは,肥料用に使われるのが大部分であった。大正中期ごろから和牛の肥育試験に用いられるようになり,各種の肥育奨励策により,大正後期になって,大豆粕の利用が普及するようになった。

  (1) 去勢の奨励

 明治32年(1899)に,岡山県は県費奨励金(1頭当たり2円,130頭)を下付して,去勢奨励を始め,明治44年(1911)までの13年間に,1,615頭に対し,総額2,513円(1頭当たり1−2円)の奨励金を交付した。そのねらいは,畜牛改良上,自由交尾の弊風を改めることが第一であったが,そのほか産肉能力の向上により肥育によい効果を及ぼすこと,性質の温順化により使役に便ならしめることなどの目的をもっていた。そして,去勢が肥育および使役上に効果のあることをたしかめて,次第に去勢を希望する者が多くなって行ったけれども,和牛生産地の美作および備中北部においては,その効果を知らないで去勢を希望する者が少なかったという。
 去勢牛肥育試験が,各地で行なわれるようになったのは,昭和7−8年(1918〜19)ごろからである。