既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第2章 和牛(肉用牛)の変遷

第5節 肉用牛肥育事業の進展

2.大正時代から昭和前期における肥育

  (3) 肥育牛の飼養管理

 岡山県種畜場千屋分場は,大正12年(1923)度,初めて肥育試験を実施した。これは,今でいう雌牛の老廃牛の肥育に相当するものであったが,当時の肥育牛の飼養管理を初め,肥育成績がかなり詳細に記してある。
 先づ,肥育試験を始めた目的は,次のとおりであった。すなわち「そもそも,本県和牛は役肉用牛として古来から声価が高く,その肉用価値もまた相当の成績をあげているが,従来から,実際に肥育した成績が見当たらない。」思うに「肥育のように小農家の残滓物を適当に施し,その利用価値を高めることは,産牛経済上注目すべきのみならず,農家の副業として格好のものである。由来,本県南部地方で,肥育を行うものがあるが,まだ適当な飼い方をする者が少ないようだ。そこで合理的に,しかも農家に適した飼い方を行ない」また,「その収支を明らかにし,斯業の奨励普及を図ろうとする」,というものであった。
 供試した牛は,阿哲郡内から購買した2頭の牝牛で,1頭は,初産分娩後,不妊となった7歳の中肉の牛(1号牛とする)で,他の1頭は,4頭の子牛を分娩した9歳の痩削した牛(2号牛とする)であった。
 飼養管理は,なるべく一般農家でできる簡単な方法によった。すなわち,濃厚飼料として大麦,ふすま,大豆粕,米糠,食塩を,粗飼料として乾牧草,稲藁を用いた。そして,濃厚飼料は,ねり飼いとし,粗飼料を細切して熱湯をそそいで軟かくしたものと混ぜて,よく撹拌したものを,1日4回に分与した。飲水は微温湯として午後1回十分飲ませた。
 牛房は,外囲に菰を張って,日光の直射を避け,動物を安静にした。
 運動は,初期においては,1日2時間の曳運動あるいは自由にぶらぶら歩きをさせたが,肥育の進行につれて徐々に軽減し,末期には舎外にけい養するにとどめた。
 手入れは,1日1回十分行なった。
 飼料の給与量は,各種飼養標準をもとに,体重,試験牛の嗜好などを勘案して定め,秤量給与した。
 肥育期間は,1号牛は145日,2号牛は125日であった。
 体重は,5日ごとに,朝飼い前に測定した。
 屠殺解体は,試験終了とともに大正13年(1924)3月9日,上房郡高梁屠場においてこれを行ない,屠体の調査を行なった。千屋分場から屠場までは約14里(56キロメートル)で2日行程であって,曳付中の体重減は,1号牛12.5貫(46.9キログラム),2号牛7.7貫(28.9キログラム)であった。
 試験成績の概要は,屠殺直前体重110貫(412キログラム)余り,枝肉重量60貫(225キログラム)程度であって,そのころの一般農家のものより,かなり肥育が進んでいたことがわかる。なお,1日平均の濃厚飼料摂取量は,5.5〜6.0キログラム程度,粗飼料(乾草換算)3.5キログラム程度ということになっている。
 翌13年(1924)度にも,6歳(未経産の不妊牛)と8歳(3産したもの)に2頭につき,ほぼ同様の肥育試験を行ない,岡山屠場で屠殺解体している。
 昭和12年(1937)には,岡山県種畜場(本場)において,次のような肥育試験成績を発表した。すなわち,昭和8年(1933)から,肥育模範施設として,和牛の肥育試験を行なって,その飼養管理の状態,肥育の程度,経済性について調査試験を行ない,指導奨励を行なったが,この試験の成績によれば,和種成牛は100日ないし150日肥育によって,約30〜40貫(112.5〜150キログラム)の増体があり,増体1貫当たり澱粉価4貫ないし6貫を要したということであった。
 肥育事業の始まった初期においては,現在でいう老廃牛の飼いなおし程度のものがほとんどであって,昭和年代に入っても,7−8歳の雌牛の短期または中期肥育が多かった。当時は,役利用のウエイトが高かったので,素牛は春秋2期の農繁期のあと,市場へ安値で出回る時期をとらえて導入するものが多く,一方,肉需要の方は,年末,秋の松茸時期,春の花見時に多かったので,肉牛の出荷時期をこれに合わせて,肥育するのが普通であった。
 したがって,肥育期間は,短期すなわち100〜120日ぐらいか,中期すなわち180日程度ともするのが多かった。
 肥育技術がかなり確立された昭和年代になると,肥育期間を前,中および後期または第1,2および3期に分け,第1期は肥育牛の基礎をつくり,第2期は飼料栄養分を思いきって多く与え,肉および脂肪の蓄積を盛んにし,第3期は,肉質改善をねらう仕上げ期とした。日数は,ふつうそれぞれ30日,40−50日および30日位とした。
 濃厚飼料の配合割合を,各期それぞれの飼養目的により変更することは,当時は肥育の常識であって,このことは昭和40年(1965)ごろまで続けられた。その後,飼料の単純化により,飼料費の節減と労働の省力化が進められるようになった。当時の飼料の配合割合を例示すれば表2−5−3のとおりである。

 飼料の調理方法は,水に浸漬したり,熱湯をもって軟化し,粗飼料は細切細断し,煮沸するものが多かった。切藁もなるべく短かく切ることが,食いやすく消化しやすいと思われていた。現在からみると,随分無駄な労力をかけていたものである。飼料給与回数も1日3〜4回としていた。その他の管理については,前述の千屋分場の肥育試験におけるようなものが標準的なものであった。