既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第2章 和牛(肉用牛)の変遷

第5節 肉用牛肥育事業の進展

3.昭和戦後期における肥育事業の進展

(1) 去勢牛の若齢肥育とホルモン肥育

   1 去勢牛の若齢肥育

 第二次世界大戦後の混乱を経て,各地に和牛の肥育事業が復活したのは,昭和25年(1950)ごろからである。飼料事情がようやく好転し,経済の復興なった昭和27年(1952)には,麦の統制が撒廃され,ついで麦価の低落,輸入飼料の増加などにより,和牛の肥育は急速に普及し,昭和29−30年(1954〜55)のデフレーションによる牛価の下落が大きな動機となって,全国的な肥育ブームが起こった。昭和31年(1956)における全国の和牛肥育頭数は,雌牛114,900頭,去勢牛77,200頭,雄牛54,700頭,計254,800頭で,同年の成牛屠殺総数638,000頭の40パーセントを占めるまでになった。
 終戦後,在日駐留軍用特需肉として,去勢肉牛に対する需要が増大したので,漸次,去勢牛肥育が行なわれる気運となった。しかし,肥育素牛の供給地である和牛の生産地や育成地で去勢が普及しなかったためと,去勢牛の枝肉価格が,表2−5−4のように,めす牛のそれにくらべて相当安値であったことから,去勢牛肥育は伸び悩みの状態で推移した。

 昭和20年代における岡山県内の肥育形態をみれば,都窪郡菅生村および茶屋町(現倉敷市)では,昭和25年(1950)ごろ雌牛の理想肥育がとりあげられていた。また,和気郡では,肥育素牛の育成を目的として,48貫(180キログラム)程度の雄子牛を導入し,去勢して,農耕に使役しながら70〜100貫(260〜375キログラム)程度まで飼育し,和気家畜市場を通じて赤磐郡,関東方面あるいは,四国方面へ販売していた。赤磐郡ではこれにより,いわゆる壮令肥育がおこなわれていた。なお,勝田郡を中心とする美作地方では,このころから老廃牛を主体とした肥育が開始され,一方,せり市場へ出荷する雄子牛の去勢技術も導入されていた。また,高梁地域でも,昭和27年(1952)ごろから去勢牛の壮齢肥育が始められた。
 岡山県は,昭和23年(1948)5月,「岡山県農業振興計画委員会」を設置し,種々検討の上,同計画(第一次案)を取りまとめている。昭和28年(1953)を目標年度とするこの計画案による肥育については,@増殖目標としては,1ヵ年食肉(枝肉)4,300トンの供給目標とする(注 計画年(昭和24年)の枝肉生産量は952トン)。A牛の利用を一層全からしめるため,肥育に適するものは,肥育して販売させることが有利であるから,肥育地帯を設けて,肉牛の生産を行なわせる,としていた。
 昭和26,7年(1951−52)ごろから,肥育技術向上の成果と見られる,肥育牛の若齢化のきざしが現われてきた。去勢牛では3歳牛の占める割合が大きくなり,雌の理想肥育についても,従来の5−6歳でなければ,「サシ」が保証しがたいという常識を破って,3歳のものも相当現われるようになり,この傾向は,30年(1955)以後さらにはっきりして来た。
 昭和29−30年(1954−55)には,農林省中国農業試験場畜産部(中国農試畜産部)において「去勢肉牛研究会」が開催され,ここで初めて生後18−20ヵ月齢で,仕上げ体重450キログラムの「去勢牛若齢肥育」の技術体系が確立された。この技術は,もともと京都大学農学部において確立されたものである。なお,岡山県の試験研究機関においても,このころから,牛の肥育試験が数多く実施されるようになった。
 去勢牛若齢肥育は,素牛の共同購入,仕上げた肉牛の共同出荷など,市町村や農協の補助事業として取り上げられやすく,また,良質の粗飼料を多く利用し,かつ,ホルモン肥育などを取り入れて,ますます健実な発展を遂げるようになった。
 昭和30年代以後,農業の機械化が進み,とくに,36年(1961)からの動力耕耘機の著しい普及に伴って,畜力利用が減退したので,和牛は肉用に大きく傾斜して行った。翌37年(1962),国は,家畜改良審議会の議を経て,それまでの「役肉用牛」を「肉用牛」と呼ぶことに改めた。
 この年代になると,吉備郡高松町および足守町(いずれも現岡山市),小田郡矢掛町,上房郡,および勝田郡の一部に去勢牛肥育が始められるようになった。とくに,県南部で,古い肥育地帯として知られていた山陽町南方と倉敷市三田とは,かなり強い競争意識を燃やしていたということである。
 この年代の後半になると,後月郡芳井町,小田郡美星町,笠岡市北部,上房郡賀陽町などを初め,県北部の津山および勝英地方にも肥育が普及するようになった。
 昭和38年(1963)における地域別肥育状態は,表2−5−5のとおりであった。なお,昭和40年代以降の肉牛生産動向は,表2−5−6のとおりであった。なお,種々の肥育形態については,現在では表2−5−7のように考えられている。

 去勢牛の若齢肥育は,全国的に見て,昭和33年(1957)には,和牛肥育頭数のわずか5パーセントに過ぎなかったものが,38年(1963)には28パーセント,42年(1967)には34パーセントを占めるようになった。岡山県の場合は,40年(1965)の39パーセントから,50年(1975)には55パーセントとなっている。
 昭和40年代に入ると,乳用雄子牛の若齢肥育が普及して来たが,とくに47年(1972)からの増加は著しく,48年(1973)になると,ついに去勢和牛の頭数を抜き,現在に至っている。このような情勢の中で,和牛去勢牛の肥育は,高級肉生産指向型となり,肉質のよりよいものをねらいとして,肥育期間を伸ばし,仕上げ月齢を大きくし,体重を大きくする,いわゆる去勢牛若齢肥育の長期化現象が現れて来た。これが,肥育当初から濃厚飼料を飽食させる従来からの若齢肥育方式のまま,これに上積みされる形となったので,生後22−24ヵ月齢で,600キログラム以上に仕上げる肥育パターンの中で,次のような新しい問題を提起することになった。その問題とは,@飼料効率が悪くなり,濃厚飼料の所要量が多くなる。A肥育期間の長期化により,資本,労働の生産性が低下する,B肉牛は過肥に陥り,しかも,期待どおりの肉質改善の望めないものがある。などである。

   2 ホルモン肥育

 ホルモン肥育とは,種々のホルモンに関係のある薬剤を与えたり,内分泌腺に,ある処置を加えて肥育促進(増体量の向上,飼料利用性の向上)や,肉質の改善をしようとする肥育法のことである。広い意味からすれば,去勢もこの部類にはいるが,普通去勢はホルモン肥育の内にいれていない。
 ホルモン肥育は,アメリカにおいて,昭和25年(1950)ごろ,肉用牛にエストロゼン系などの性ホルモンを投与することによって,増体量や飼料の利用性が改善されることが見出されたのに始まった。
 わが国においては,昭和28年(1953)農林省中国農業試験場畜産部において,直接ホルモン剤を使用するのではなく,ホルモンの分泌に関係のある甲状腺部分除去による去勢牛の肥育試験に着手したのが最初だといわれている。
 岡山県では,この甲状腺部分除去による肥育技術を普及するために,昭和33年(1958)に県南部の肥育地帯の獣医師を対象に,農林省中国農業試験場畜産部から土屋平四郎を講師として招き,高梁家畜市場において講習会を開催したのが初めてであった。その後,北房町や倉敷市などで実施された。この方法は,増体および肉質の改善に効果のあることが認められ,全国的に実用化され,好評を博したが,数年を出ずして抗甲状腺物質(ミートモアー,タパゾール)などホルモン剤が市販されるようになると,衰退して行った。
 昭和30年代には,合成発情ホルモンであるヂエチルスチルベストロール(DES)を中心に,各種の性ホルモン剤や抗甲状腺剤について,京都大学や農林省中国農試畜産部を初め,岡山県和牛試験場など府県段階の畜産試験場で,種々の肥育試験が試みられ,ホルモン肥育が,とくに去勢牛若齢肥育において,増体に対して有効であることが立証され,広く一般に普及するようになった。
 さらに,ホルモン剤の2回投与や,2種以上を併用することにより,肥育効果を促進しようというねらいで試験が行なわれたが,これらについては,期待するほどの効果は認められなかった。ともあれ,一般農家へのホルモン肥育の滲透は著しいものがあった。岡山県においては,昭和35年(1960)児島郡興除村(現岡山市)で,また,それとほぼ同時に,勝田郡内で,若齢去勢牛の肥育にホルモン剤が初めて使用された。