既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第2章 和牛(肉用牛)の変遷

第5節 肉用牛肥育事業の進展

3.昭和戦後期における肥育事業の進展

  (5) 牛舎構造等の変遷

   1 牛舎

 牛舎は,昭和30年(1955)ごろから,外厩,浅厩式に改善されるようになり,さらに,35年(1960)ごろから若齢肥育が盛んになり,多頭肥育の傾向となるに及び,牛舎は単位面積当たり収容頭数を多くという要求から,その様式は省力多頭飼育向きに急激に変って来た。
 昭和39年(1964)に,和牛肥育研究会で協定された種々の牛舎の名称は次のとおりである。すなわち,単房式牛舎,開放式牛舎(ルーズバーン), けい留式牛舎,追込式牛舎(閉鎖式追込,運動場付追込,開放式追込)などである。
 単位面積当たり収容頭数を多く,しかも省力管理に好適として,一般にはルーズバーン方式が多い。

   2 屋外肥育

 畜舎,その他への設備投資を,できるだけ少なくし,かつ,省力管理する意図で,昭和40年(1965)の初めごろから,屋外肥育が検討されるようになった。京都大学農学部を中心とした協定研究により,飼料を自由採食とし,休息所や地面の泥ねい化に対するある程度の対策を考えれば,従来の屋内肥育と大差ない増体成績などを示すことが分かり,この種の肥育が急速に普及して行った。
 岡山県で,この方式が初めてとられたのは,吉備郡足守町(現岡山市)の宗景毅によるものである。乳用去勢肥育牛25頭を,居宅前の一段低い傾斜地へ屋外飼育したのは,前述の研究に先だつ,昭和37年(1962)ごろからのことである。これは,昭和42年(1967)9月,中畜主催により,岡山市において,近畿,中四国ブロック技術者指導研修会に展示され,中央新聞や雑誌にも報道された。
 赤磐郡瀬戸町農協の和牛部会は,昭和42年(1967)5月に,京都大学の屋外飼育方式を視察して,同年の後半から翌年にかけて,この方式を取り入れ,飼育規模の拡大を図った。以後,この屋外飼育方式は,県内の肥育地帯でかなり急速に普及した。ところが,水質汚濁防止法に係る特定施設に畜舎が対象となり,畜産公害問題がやかましくなって,屋外飼育方式は後退していった。
 昭和51年(1976)2月における,農林省中国四国農政局統計情報部の調査によると,県内の使用畜舎の構造別,肥育牛飼養農家戸数は,けい留式を用いているものが897戸で約40パーセントを占め,ついで,追込式が629戸(28%)単房式411戸(18%)その他296戸(13%)となっている。