既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第2章 和牛(肉用牛)の変遷

第6節 和牛(肉用牛)の流通

1.家畜市場と和牛(肉用牛)の流通

(3) 家畜市場法施行から家畜取引法公布まで

   1 昭和前期まで

 明治以前から政府によって「せり」による牛馬の売買が要請されてきたにもかかわらず,袖の下取引きが支配的であり,かつまた,農民が直接市場へ参加することはまれで,まや先取引きが多かった。明治43年(1910)家畜市場法(法律第1号)が牛馬商取締規則(農商務省令第27号)と同じ年に制定されるに及び,それまで古い取引慣行を続けて来た家畜市場にもようやく取引近代化のきざしがみえだした。
 たとえば,真庭郡産牛馬組合は,牛馬売買上の弊害を矯正するため,明治40年(1907)に糶売法を制定して,勝山ほか6ヵ所に犢駒糶売場を設けた。国政寛(昭和33年)の『勝田郡誌』によれば,「大正年代において勝田郡畜産組合は,家畜の売買に際して随時適当な市場を借り受けて開設していたが,家畜の売買を盛んにするため,定期家畜市場を設けることになり,勝加茂村(現勝北町)字坂上の農林省の種馬所支所のかたわらにけい場を設け,昭和3年(1928)4月から勝加茂定期市場を開設した。なお,これまで市場においては商人が,牛馬の売り手と袖の中で手を握り合って値段をきめていたが,これではともすれば安値で取引されることが多いので,郡畜産組合は,井上竹雄技手,流郷伴治郎,早瀬栄四郎の3名に真庭郡の先進地市場を視察させ,その結果,11月1日飯岡市場,12月2,3日勝加茂市場をはじめとして,せり売りを実施した。ついで,勝間田,北吉野,大崎,梶並の各地区に,せり売りによる定期市場を開設したので,全国の各地から多数の商人が集まって年々盛況を呈した」ということであった。
 昭和3年(1928)10月になると,県内の家畜市場開設者をもって組織された岡山県家畜市場連合会が設けられた。この会の事業は,@各市場業務の連絡統一,A市場における取引方法の改善,B販路拡張,C市場衛生の改善,Dその他市場経営上必要な事項,となっていた。また,同時に制定された同会の規約には,第4条に「本会ハ市場取引ノ正確ヲ期スル為メ市場内及売買禁止区域内ニ於ケル密売ノ取締ヲ励行スルモノトス 密売ノ事実ヲ認メタル時ハ其ノ違反者ニ対シ入場ヲ拒絶スルモノトス」とあり,取引きの近代化に努める姿勢が示されていた。ついでに同規約によれば,入場料および歩合金は次のようであった。すなわち,@売買価格20円未満のものは1頭につき20銭,A20円以上の場合は,10円未満の端数を切り捨てて,その価格の100分の1,B交換歩合金は双方価格合計金額の10円未満の端数を切り捨てて,その価格の100分の1,C入場料は1頭につき金10銭,であった。
 これよりさき,大正元年(1911)10月,姫路牛馬常設市場の主催により,姫路市において,中国6県家畜市場組合が結成された。岡山県からは,福本治作ほか3名が出席し,「議案第13」として「各市場ハ相互ニ気脈ヲ通シ牛馬商及屠肉業者ヲ監督シ並ニ市場業務規程ニ違犯シタルモノハ共同処分スル事」ほか3議題を提出している。そして,この組合の規制第2条に「本会ハ中国6県家畜市場(臨時市場ヲ除ク)組合会ヲ設ケ互ニ気脈ヲ通シ畜産業ノ振興ヲ謀リ且売買上ノ矯正ヲナスヲ以テ目的トス」ということで,市場取引きの近代化を目的としたものであった。
 昭和4年(1929)には,岡山県は犢駒糶売規則(県令第50号)を設け,同年7月1日から施行したが,この内容は「畜産組合は組合員の生産した犢駒の売買交換の便を図るため,その区域内の便宜の地に毎年犢駒の糶売を行なう家畜市場を開設しなければならない。もし,これを開設することができないものがあれば,その理由を具してあらかじめ知事の認可を受けなければならない」というものであった。これに基づいて各郡畜産組合は犢駒糶売市場業務規程を設定して犢駒せり市場を開設した。
 昔から家畜の取引については,つねにその前近代性が指摘されているが,それは米穀など他の農作物に比較して,牛馬のような大家畜では,商品として次のような特殊性があるためと見られている。@単価が大きく,かつ,大量生産の困難な商品であること。A規格の統一が困難な商品であること,B価値評価がむづかしい商品であること,C家畜商の欺瞞的要素のはいりやすい商品であること,などである。
 明治44年(1911)2月1日から施行され家畜市場法を契機として,それまでの問屋による特権的な市場運営から株式会社組織によるものに変ったけれども,公益法人である畜産組合または市町村などによる市場経営を望ましいとするこの法律の精神が,現実のものとなるまでには,かなりの年月を要している。例えば,高梁家畜市場は,この法律の施行に伴い,それまでの為長屋一族の管理から,かれらが中心となって組織した「合資会社高梁定期家畜市場」の管理に移され,大正11年(1922)に認可された上房郡畜産組合に移されたのが大正14年(1925)であった。
 昭和5年(1930)における家畜市場の開設状況は表2−6−10のとおりであった。

 原田龍右衛門(昭和2年)の『川上郡史』によれば,大正元年(1912)に成羽町に組合定期家畜市場を設置して以来,10ヵ年間いろいろ方法を講じたけれども,近くに有名な高梁市場を控えているため,つねに失敗に終り,市場は徒らに雑草の繁茂するにまかせる状態が続いた。ところが,大正11年(1922)春,高梁市場不親切の声が高まり,川上郡の当業者は結束して成羽定期家畜市場へ牛を引き出すことを約束し,また,組合当事者も極力奔走したので,成羽市場はにわかに活況を呈するようになった。同年3月18日を初市とし,毎月8,9両日開場し,入場頭数は常に数100頭を下らないまでになり,顧客は遠くは四国方面からも参集して,歴史ある高梁市場をしのぐ盛況を呈するようになったということであった。
 岡山県(昭和3年)の『岡山県郡治史(下巻)』によれば,阿哲郡においては,郡畜産組合の事業として,大正6年(1917),新見定期家畜市場を創設し,同10年(1921)には,千屋,上市,刑部の3市場を買収し,また,矢田市場を新設した。
 家畜市場法では,家畜(牛馬羊豚)市場の開設は,地方長官の許可を受けなければならないこととし(第2条),家畜市場には常設,定期のほかに臨時(常設および定期市場でないもの)の3つが設けられた。法規の内容は,@牛馬商は家畜市場付近の一定区域内において,市場開催日およびその前後の一定期間中は,その市場において取り扱う家畜の取引きを禁ずる(第7条),A常設家畜市場においては,地方長官は,主務大臣の認可を経て,一定区域内において,同一家畜を取り扱う家畜市場の開設を禁止する(第8条)およびB地方長官は家畜市場周辺一定区域内において,牛馬宿での取引きを禁止または制限することができる(第9条)などであった。このようにして,地方長官の指定した市場以外での取引きを厳禁し,公正な市場内取引きをとおして,市場の実勢価格が公開の場で形成されることをねらいとしたものであった。この法律に引き続き,直接取引きの当事者である牛馬商に対し「牛馬商取締規則」(明治43年,農令第27号)を公布して,家畜取引の近代化政策を打ち出した。しかし,家畜商の抵抗も強く,政府は世論の動向を観察していたというのが当時の実情のようであった。(農林省畜産局(昭和42年),『畜産発達史(別篇)』)
 昭和14年(1939),当時の中央畜産会により,家畜の取引改善と近代化について論議された「畜産物取引改善協議会議事録」をみればつぎのとおりであった。

   〔第1 家畜商に関する論点〕   略
   〔第2 家畜市場に関する論点〕
    中畜・・家畜市場の整備統制並びに連絡協調を促進するとともに,市場内における取引方法の合理化並びに取引機関の充実をはかり,もって家畜市場を刷新すること。
   1 家畜市場法を改正し,家畜取引改善上必要ありと認めたときは,地方長官は,畜産組合または市町村に家畜市場の設置を命じ,または家畜市場の廃場を命ずることを得る権限を賦与すること。なお,将来私設家畜市場の開設を許可せざることを家畜市場法中に制定すること。
   2 家畜の取引は主として糶売とし,市場の事情により入札,相対,看貫,割貫などの取引をも行なうことを得ることとすること。ただし,割貫取引は公正なる機関においてこれを行なうこと。
   3 枝肉取引の水引はこれを廃止すること。
   4 市場開設者は厳重監視し,闇取引の防止に努むること。
   5 市場開設者において仲立人を厳重監視し,入場料以外の料金を収得せしめざるよう,家畜市場法に規定すること。なお,不正仲立人は市場において仲立を禁ずること。
   6 原則として家畜市場の取引は現金とすること。
   7 家畜市場における諸手数料は,かなり軽減すること。
   8 家畜市場における糶師,仲立人または家畜牽付人,家畜評価,または受託売買に当る市場職員の設置もしくは必要なる設備に対しては,国庫より助成金を交付すること。
   9 農林省および地方庁に専任の職員を設置し,家畜市場及び家畜商の指導監督に当らしむること。

 家畜取引きの具体的な改善策として,家畜市場法を施行し,また,従来の牛馬商取締規則を廃止して,新規に試験制度を取り入れた家畜商(牛馬に加えて豚,めん羊,山羊を対象とする)取締規則(昭和16年,農林省令第69号)を公布した。このほか,畜産物の販売斡旋事業の奨励(岡山県畜産組合連合会畜産物販売斡旋及受託販売規程,大正15年5月),共同購入の斡旋(岡山県畜産組合連合会役馬共同購入補助規程,昭和4年),共同施設の設置など一連の奨励事業を推進し,この面からも取引改善を図ろうとしたのが昭和初年から14年(1939)ごろのことであった。
 戦時下物資および物価の統制は,しだいにきびしくなり,昭和16年(1941)6月には,「牛ノ最高販売価格に関スル告示及通牒」(農林省告示第352号)が,価格等統制令第7条の規程により布告され,同月15日から施行された。
 最高販売価格は,次のように登録登記の資格別に決定された。和牛生産地の子牛せり市場では,最高販売価格により牛価を抑制しようとしても,一般市価が高騰したため,正常なせり市場の運営はできなくなった。すなわち,せり人が発句を出すやいなや,多くの買参人が一斉に「最高」と叫んで挙手するありさまで,挙手した複数の者の抽せんにより買い手を決定するという状況で,到底正常な市場取引きは望めない状態になった。昭和19年(1944)には,岡山県犢駒統制規則により県外移出禁止の措置がとられた。

     牛ノ最高販売価格ニ関スル告示及通牒
     農林省告示第352号
     価格等統制令第7条ノ規定ニ依リ牛ノ最高販売価格左ノ通指定シ昭和16年6月15日ヨリ之ヲ施行ス
       昭和16年6月6日
                農林大臣 石黒忠篤
        牛ノ最高販売価格
    1 乳用牛(略)
    2 役肉用牛
      区 分      生後12月未満   生後12月以上
                牝   牡    牝   牡
     登録資格アル牛   740円 450円 810円 650円
     登録補助牛又ハ其ノ資格アル牛   420円 220円 520円 340円
     其ノ他ノ牛     280円 160円 400円 280円
 告示には次のことが規定されていた。
   (1) 役肉用牛とは,和種,改良和種,ショートホーン種,朝鮮種またはこれらの雑種をいい,乳用牛と役肉用牛との雑種は,役肉用牛とする。
   (2)および(3)(略)
   (4) 妊娠7ヵ月以上の牝牛の最高販売価格については,本表の価格にその3割以内の額を加算することができる。
   (5) 本表の価格は,中央役肉用牛登録規定により本登録を受けた牛もしくは地方登録規程により予備登録を受けた牛には適用しない。
   (6)および(7)(略)
   (8) 本表価格は,国が売買当事者のときは適用しない。
 さらに,これの規制を受けない「例外許可」としての次の4項目をあげていた。
   (1) 繁殖成績のきわめて優秀な本登録牛および予備登録牛を父母として生産されたもの。
   (2) 種牛共進会において,とくに優秀な褒賞を得たもの。
   (3) 種牡牛検査法による検査に合格し,とくに優秀な資質を有するもの。
   (4) (略)

   2 第二次世界大戦後家畜取引法制定まで(昭和31年まで)

 戦後,家畜市場法(明治43年,法律第1号)は廃止となり,また,家畜商取締規則(昭和16年,農林省令第69号)も失効して,家畜取引きも戦後の虚脱状態の例外ではあり得なかった。日ましに募るインフレの中で,生牛の価格統制は撤廃されても牛肉の価格統制は継続されていたので,牛房につないだ牛が盗まれ,山中で密殺されるという無法が物珍しくもないほどの世情となり,牛肉の「ヤミ値」が横行した暗い戦後の一時期であった。
 昭和22年(1947)9月,戦後はじめての畜産審議会は,緊急食糧増産ならびに人口収容力増大(引揚者対策)という課題に対応するため「畜産振興対策要綱」を議決した。この中で,家畜市場の整備強化については次のように議決している。

   1 家畜市場の開設は,畜産に関する農協または同連合会に対し優先的に許可する。
   2 市場内に家畜の販売斡旋の相談機関を設ける。
   3 市場内における売買手数料の適正を図る。
   4 市場収入は畜産施設に利用する。
   5 家畜の取引代金に対する支払いの責任を市場開設者にもたせる。
   6 常設市場における家畜取引頭数及び価格の掲示の励行並びに市場付近の取引禁止区域における家畜の取引きに対する取締りを厳守する。

 このように,家畜市場の開設を畜産専門農協に優先的に行なわせるよう決議された。
 兵庫県においては,昭和21年(1946)に牛馬市場取締規則を発布して,いち早く戦後の混乱から抜け出そうとした。岡山県では,このようなものを設けることなく,家畜市場開設者である岡山県農業会(昭和23年8月県農業会解散後は各郡市畜産農協または同連合会)の定款に基づく家畜市場業務規程により一般市場の開設運営が行なわれた。一方,畜産農家の生産する子牛子馬については,犢駒糶売規則(昭和4年,県令第50号)の主旨を継承して,子牛子馬公正取引条例(昭和23年9月1日,県条例第69号,昭和48年県条例第36号により最終改正)が制定され,これに基づいて畜産専門農協により子牛せり市場が開設されるようになり,その後開設者の変遷を経て,現在の県経済による子牛産地市場となっている。
 県では,昭和23年(1948)5月,岡山県農業計画委員会を設け,鋭意検討のうえ,同年12月に岡山県農業振興計画,第一次案」をとりまとめた。その中で,農用牛(和牛)の販売対策として,(イ)牛馬公正取引条例に基づき犢の生産検査及び糶売を徹底的に励行することを挙げている。
 このような中で,国では家畜商法(昭和24年,法律第208号)や旧家畜市場法を検討して,新しい取引きのあり方を検討する方向で,市場の実態調査などを実施した。そして,昭和31年(1956)6月1日,法律第123号をもって家畜取引法が制定され,家畜市場の再編整備と取引の近代化を急速に推進することとなったのである。

  3 家畜取引きの実態

 大正年代から家畜取引法の公布された昭和30年代までの家畜取引きの実態を述べれば表2−6−11のとおりであった。

 つぎに,大正3年(1914)における家畜市場取引成績は表2−6−12のとおりであった。

 家畜市場法の施行された明治44年(1911)における市場数は19(常設3および定期16)であったものが,大正3年(1914)のそれは25(常設4および定期21)と増加している。しかし,両者を比較してみれば,入場頭数こそやや増加したものの売買頭数はほとんど同じであった。したがって,入場頭数に対する売買頭数の比率が60%以下に低下したこともあって,1市場当り平均売買頭数が減少し,その70%が年間取引頭数1,000頭以下という弱小市場であって,適正な実勢価格を公正な取引の場で形成しようという期待にはまだ十分対応できない状態であった。この状態は,昭和年代まで続いていた。
 第二次世界大戦中,子牛のせり市がまだ正常に運営されていた昭和13年(1938)における県内主要生産郡の子牛せり市場成績は,表2−6−13のとおりであった。参考のため,中国各県の主要産地の成績を各1郡ずつ挙げた。

 昭和26年(1951),戦後はじめて和牛360頭がホンコンへ輸出された。これは全国的にはじめてのことであった。30年(1955)には,米軍占領下の沖縄へ妊娠牛230頭を,県畜連から「輸出」した。