既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第2章 和牛(肉用牛)の変遷

第6節 和牛(肉用牛)の流通

2.家畜商

  (1) 藩政時代の牛馬商

 農林省畜産局(昭和42年)の『畜産発達史(別篇)』に「家畜商の史的形成と実態」について,きわめて詳細な記述がある。これによれば,「ばくろう」という字義は,本来「午玄人」から来たとの説があり,「牛飼い,馬飼い」の玄人の意ということである。「伯楽」は「博楽」とも書き,牛馬の相を見分け,獣医の資格を兼ね備えたものであることは,一般によく知られている。徳川末期になると「博労」と使われるものが多く,これは伯楽のなまったものといわれている。「馬喰」というと,この職業をかなりさげすんだ呼び方のように感じられる。
 藩政時代に各藩は馬政に力を注いでいた。これについて,とくに仙台,南部,津軽,鹿児島など馬産地の各藩のことが詳しく述べられている。将軍家へ献上する馬を輸送した仙台藩の博労が,士格に準じて帯刀御免を許され,江戸到着後は,この馬を上覧に供する際,将軍に拝謁する特例の殊遇を受けたことが記されている。
 さて,岡山藩においても,享保4年(1719)12月,備中下道郡久代村(現総社市)天王市において馬の買い出しに功労のあった馬喰七兵衛に毎年3人扶持が与えられている。文久3年(1863)には上道郡平島村(現岡山市)の平六が同じ理由で二人扶持を与えられ,さらに寛政6年(1794)9月14日,馬中次兵吉も二人扶持を与えられている。津高郡一宮村(現岡山市)の一の宮市においては,宝暦年間(1751−63)博労の宿泊料の半額を補助し,その他馬送に扶持したなどの事績がある。
 藩政時代には庄屋が牛馬商を兼ね,あるいは領主の任命した特権的な牛市管理者,例えば摂津天王寺市の石橋孫右衛門や備中松山市場の中曽屋のように世襲的に最も高い地位に立つなど,家畜商の地位はかなり高いものであった。これが,明治維新以後になると,家畜の流通面において,自己の能力と資力とをもって農家を支配し,搾取するという弊害が強調され,馬喰という地位に後退した。しかし,竹の谷蔓のような和牛優良系統牛の作出存続に功労のあった者や,貧農や小農に対して資金等の経営面や飼養管理技術面などにおいて温かく好意的に接した者ももちろん少なくなかった。
 家畜商には古くから社会関係を構成する身分的階級的秩序とも見られる業態別構造が,次のように存在していた。

   大馬喰または親方,元方

 数人から10数人の子方馬喰を置き,相当の資産と馬喰宿を持ち,旅馬喰を宿泊させ,家伝の畜牛鑑定法を子方馬喰に伝授するなど,この道の玄人である。近世末期,作州「神集蔓」の磯八,備中「竹の谷蔓」の浪花千代平,「大赤蔓」の太田辰五郎などもこの中に含まれる。
   子方または地馬喰(土着の者)
 この階層は親方の支配下に属し,単独または親方の依頼により,あるいは農家と特約して,牛馬の売買,交換,斡旋を行ない,これを直接間接家畜市場に持ちこんで取引きする者である。

   牛追い,牛廻し

 牛追いは親方に属して畜牛の運搬に従事する。熟練者は一人で四鼻綱の牛を追った。一鼻綱(一張綱または一端綱ともいう)の頭数は成牛2頭ないし子牛4頭,あるいは成子牛とも2頭のところもある。藩政期には牛馬7疋をもって分限と定めていた。このように畜牛の取扱いに熟達すれば,親方馬喰から畜牛鑑定法を伝授されたり,子方馬喰として1本立ちを許された。
 牛廻しは,牛舎の掃除や片づけその他の雑役に従事する。
 藩政時代はもちろん,明治,大正年代の牛の陸上輸送は専ら「追いかけ」で,追いかけ牛にはわらじをはかせ,背にこも(菰)を着せ,はきかえのわらじをくくりつけていた。この菰を「えびす菰」といい,編み方に一定の方式があって,違式のものを着せて市場へ出すと,素人か牛盗人かと見られた。また東牛と西牛とで菰の飾り方が違っていた。(松尾惣太郎(昭和30年)の『阿哲畜産史』)追いかけ子牛の1日行程は5−6里であった。伯耆大山から大阪までの所要日数は,大山−久世間2−3日,久世−姫路間3−4日,姫路−大阪間5−6日で,10日以上かかった。

   旅馬喰

 消費地の親方馬喰から集散地へ派遣されて,各地から牛馬を買い占める任務をもつ者である。
 これらのものは,「縄張り」が定められていて,その区域内での牛馬の売買交換の実権を握っていた。このことは,個々の家畜商の農家に対するまや先(まやさきまたはだやさき)に通ずるもので,相互に既得権を尊重し合うことによって,農家の活殺与奪の実権を握るようになったのである。
 このような実情の中で,封建時代に牛馬法を定め,馬市仕法書や博労取締御書が出され,これに対して博労誓書之条など,取引近代化の問題は古くから取りあげられていた。
 徳川幕府は,文化11年(1814)家畜商以外の牛馬売買を禁じ,家畜取引きの統制を強化した。しかし,実際にはこのような統制を破って,半農民的な家畜商が根強く存在して,農民に吸着していた。
 家畜商は,領主から鑑札を受け,一定の冥加銀を上納して取引きをしていた。嘉永2年(1849)千屋牛馬市において上納する冥加銀は,5ヵ年分銀5匁7分(匁は江戸時代銀目の名,小判1両の60分の1)であった。一方,周旋料は「備中では1−2割」という記録が見られる。