既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第2章 和牛(肉用牛)の変遷

第6節 和牛(肉用牛)の流通

2.家畜商

(3) 家畜取引きの近代化

   1 袖の下取引き

 牛馬商が袖の下取引きをするので,明朗な価格形成が阻害され,取引きは前近代的であると,よく批判される。以前は,農家の庭先きはもちろん,家畜市場においても袖の下で取引きが行なわれた。袖の中(洋服のときは,帽子で手をかくす)で相手の手を握って値段の交渉をする。人さし指を1本握ると1,人さし指と中指の2本を握ると2,それに薬指を加えると3,人さし指から小指まで4本握ると4,片手全部の指を握ると5,親指1本握ると6,人さし指から薬指まで3本握って折り曲げると7,人さし指と中指の2本を握って折り曲げると8,人さし指を1本握って折り曲げると9,という具合である。1万か10万か100万かはものにより当然分かる。馬喰同志が袖の下で相場について交渉しているのを見るとすっきりした気分にならない。この中に(仲介(ばんぞう)の博労が入って売買双方に袖の下で交渉する図は,余り感じのよいものではない。買い手と仲介人が博労で売り手が農家の場合は,なおさらである。さて,相場をきめたあと,仲介人が買い手の掌(内側)を指でかくと周旋料は売り手から取る,買い手の手の甲(外側)をかくとこれを買い手から取るということである。周旋料を取ることを「鎌を切る」という。
 さて,取引きにかかる前に拍手(6度)をする。これを「えび子むかえ」という。商談が成立したときは,また拍手をする。これを締手といい,これによっていかなることがあっても違約しないというのが商慣習である。また,いかに高額の取引きであろうと,家畜商仲間では証文は書かない。まことに不思議な商慣習である。昔は1丁字もない者でも信頼されて立派に家畜商渡世を営んでいた者があったものである。
 次の追いかけ歌は,博労の腕自慢を歌ったものであるが,腕のよい博労は,ぜいたくができるという歌詞がいささか気にかかる。

     追かけ歌

   追いこみなされや若博労 その声おとさず唄いなされや
   わしが博労すりゃ親衆が嫌う 猿のきばのようなままたべて
   油のような酒をのみ いたちの毛のよな煙草すい
   それで博労がやめられようか            (松尾惣太郎(昭和30年)『阿哲畜産史』)

 また,千屋博労のものに次のものがある。
   千屋のばくろう  追い出す牛は
   角が高出で    背が高く
   ひたいにチョンボの 菊つけて
   脚は四つ框    組んだようで
   青いさばきの揚げ巻きに
   せなには  えびすのこもを敷き
   そのうえ 萠え黄のゆたん掛け
   四方の隅には さる下げて
   首にはひもみつ首玉で

   東に向けては一の宮
   西では芸州久井の山
   南は土佐でも讃岐でも
   北では大山地蔵の市
   どこ市でも 三百五十五両
   いうた値段は 負かりゃせん
                            (谷口澄夫(昭和45年)『岡山県の歴史』

   2 取引近代化の動き

 大正10年(1921)9月4日,小田郡役所において,小田郡牛馬商組合の創立総会を組合員81名をもって開催した。営業上の弊風を矯正し,畜産業の発達を図ることを目的とし,組合長に郡長小沼敬三郎を推している。小沼は翌年苫田郡長に就任したときも,この郡の畜産の発展に尽力している。当時は郡長が組合長を兼ねるものが多かったようで,勝田郡家畜商組合でも同15年(1926)7月まで,組合長は郡長の兼務であった。後月郡においては,大正10年(1921)9月20日,郡役所勧業掛の発起により牛馬商組合を創立し,事務所を郡役所内に置き,「営業上の気脈を通じ,組合員一致協同,相互の親睦を守り,弊風を矯正し,畜産業の改良発達を図る」ことをねらいとして,@売買上の弊風を矯正すること,A営業上に関する諸規則を順守すること,B営業上に関する官庁の諮問に答申し,または建議をなすこと,を議決している。組合経費は,年額117円(大正15年には289円)であった。
 大正10年(1921)5月30日,真庭郡においては,郡長南条彰,勝山警察署長野田清三郎と相謀り,「畜産地であるにもかかわらず,販路拡張に留意しないのを遺憾とし,牛馬商組合を組織し,同業者間の親睦を図り,旧来の売買法を改善し,広く観客を収集し,利益を増進しよう」との趣意書を郡内当業者に配布し,6月29日,勝山小学校において創立総会を開いた。以来郡畜産組合と提携し,大いに郡内牛馬の販路拡張に力め,畿内,東海道方面に牡牛犢の移出が漸次増加した。
 大正11年(1922)都窪郡においては,今田佐吉郡長,片山長之助倉敷警察署長が主唱して,11月3日に郡内の牛馬商を招集し,「同業者協同一致,営業上の弊風を矯正し,畜産業の発展を図る」目的で,牛馬商組合の設置を指示したところ,万場一致の賛成により,直ちに総会を開いて組合を設立した。その後,組合員協力して畜産組合の設置,家畜市場の開設など組合本来の目的遂行に努め,郡の畜産の発達に多大の寄与をしたということである。
 戦後,昭和28年(1953)2月1日,農林省統計調査部の「自家所有家畜入手先別調査」によれば,当時,和牛の流通の中でいかに家畜商が大きなウエイトを占めていたかが分かる。これと同時の調査による他の家畜との関係を見れば,家畜商から入手するものは,乳用牛30.8%,役肉用牛70.1%,馬60.4%,豚28.1%ということで,役肉用牛,馬の順に家畜商の手にかかるものが多かった。
 昭和31年(1956)6月,家畜取引法(法律第123号)が公布され,家畜市場内での取引きは原則としてせりまたは入札として,公開の場で公正な価格形成を期することとなった。しかし,商品としてせり取引きにすでになじんでいる子牛は問題はなかったものの,種々複雑な評価要因をもつ種牛の成牛については,容易にこれが定着せず,一時後退した時期もあった。しかし,最近は,評価要因の単純な肉牛が多く,また取引きに当たる家畜商の取引近代化への前向きの協力もあって,現在ではすべての家畜市場における取引方法が,すべてせりになっている。