既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第2章 和牛(肉用牛)の変遷

第6節 和牛(肉用牛)の流通

2.家畜商

(4) 牛小作

   1 まや先

 大正2年(1913)ごろ,和牛の子牛生産地では,子分け後の母牛を,使役地では春秋2季農繁期に使役後,疲労衰弱した牛を,牛馬商を通して飼い換える習慣があった。この時牛馬商に対して追い銭を出した。3度牛を入れ換えると「牛舎をつぶす」といわれた。1−2年間まやに入れた牛を交換するとき,追い銭を出したり,出さないまでも子牛と交換させられたりして,牛はただ「まやごえ」を踏んだだけというようなことがよくあった。農家にしてみれば,牛は消耗品であって,経営上のことは余り意に介さなかったようである。
 家畜商と農家とのこのような関係を「まや先」(まやさきまたはだやさき)といい,これを多く持つ家畜商は,資力もあり信望も厚いという証拠となる。そして,家畜商同志相互にまや先を侵さない不文律があった。従って悪くすれば,農家は生殺与奪の権を握られ搾取されるということになりかねないが,反面,資金の面倒から,牛の生産育成各般にわたる飼養管理の世話が日常行なわれるので,団体指導では行き届かないメリットもあったのである。現在は零細規模の飼養農家が減少したので,この慣習もほとんど姿を消してしまった。

   2 牛小作

 他人の牛を預って飼う者が牛小作者で,牛の所有者が牛主である。文政(1818−29),天保(1830−43)のころ,備中阿賀郡井原村(現新見市)の庄屋安藤家では,約1,000頭の牛を近在を初め作州,伯耆,遠くは四国の讃岐にまで預けてまや先を持っていた。新見の地主梅田屋,千屋の鉄山師太田辰五郎なども多くの牛を小作人に飼わせていた。近年になると,勝田郡奈義町関本の鈴木市九郎は,昭和13−14年(1938−39)ごろ,郡内はもとより,英田,苫田の西部,さらには鳥取,兵庫の両県にまで200頭以上の牛を小作に出していた。(国政寛(昭和33年)『勝田郡誌』)
 昭和32年(1957)ごろ,川上郡地方の小作牛飼養農家率は63%(竹浪重雄ら「牛小作慣行における家畜主型について」『島根農科大学研究報告(第5号)』(1957),調査は1955)と極めて高かった(広島県神石郡46%,島根県三瓶山麓29%)。耕地面積5反未満の階層では74%,1町以上の階層でも49%とほぼ半数が小作をしていた。丸小作農家は,ほとんど1町未満の階層に限られていた。5反未満の階層では,ほぼ半数が丸小作をしていた。牛主は家畜商が多く,全農家の70%が家畜商を牛主としていた。
 飼い賃は次のようであった(松尾惣太郎(昭和30年)『阿哲畜産史』。

 1 牡牛(コットイ牛) 預かるときに元値をきめておく。育成して売る時は,小作人と相談して売値をきめる。
 2 牝牛(オナミ牛) @離乳の子牛から飼育して,初産子牛を得たときは,これを全部小作人の所得とし,2産の子牛から売価を折半する。A3歳牝から飼って子牛を得たときは,初産の子牛から売価を折半する。

 寄合い持ちというのは,小作人が牛を預かる時,牛代の一部を出資して,共同で所有するやり方である。牛の肢が4本であるので,1本持つ,2本持つという具合である。利益の配分方法は,飼い賃として半分は小作人の所得とし,残りの半分を出資率に応じて配分する。この方法のよいところは,牛主は小資本で多くの牛小作ができ,小作人は一部出資しているので牛の世話をよく見るところにあった。
 阿哲地方では,農家の主婦が牛を預かってマツボリ(亭主の権限外の貯蓄)をしたケースが多かったということである。