既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第2章 和牛(肉用牛)の変遷

第6節 和牛(肉用牛)の流通

3.牛肉の流通

  (1) 明治年代における牛肉の流通

   1 牛肉の生産と消費の動向

 開港場である神戸には外国人も多く,牛肉の消費が盛んであって,有名な神戸肉の名声は,古くから伝えられている。明治20年ごろのことであるが,「神戸牛」と称して世にもてはやされる肉牛は,主として神戸以西の諸国,すなわち,m馬,播磨,備前,伯耆,出雲をはじめ,山陽,山陰両道に生産されるものが多く,また,遠く長州や九州からのものも少なくなかった。また,これらの産地から大消費地の東京へ出荷する場合も,直接出荷するのではなく,いったん神戸市場へ出荷して,神戸牛の名を冠したうえで送れば高く売れたので,そうするものが多かった(「牧畜雑誌」(第2号)明治21年8月)。当時,東京府下における牛肉の消費は,年々著しく増加していて,明治20年(1887)には20,760頭の肉牛を屠殺しているが,これらの移入先は,その8割が関西ものであった。これらは,神戸,四日市両港から船便で横浜港へ積み出すものと,陸路東海道経由のものとがあった。一方,関東ものは2割で,これは南部地方からと房総地方からのものとが多かった。肉牛の品質は,神戸牛といわれた関西地方のものが第1で,房総ものがこれにつぎ,南部地方のものはまたそのつぎであった。明治末期における農商務省調査による肉牛の銘柄ものとしては,三田牛,m馬牛,江州牛,伊予牛,長州牛,出雲牛,作州牛,神戸牛があげられていた(「日本畜牛雑誌」第92号)

 明治2年(1869),東京築地に牛馬会社を開設して,乳肉の生産販売の業を大蔵省通商司に経営させたのをはじめ,食肉の生産と供給に,国は意を用いるようになった。明治以前の屠畜場は,畑の四隅に青竹をたてて,御幣を結ぶ注連縄を張っただけのものだったという。
 明治9年(1876)に「屠牛豚肉規則」が発布され,同13年(1880)「屠牛場取締規則」が公布され,食肉生産過程での衛生上の取締りが行なわれるようになった。屠場法(明治39年,法律第32号)は,同年7月1日から施行され,昭和28年(1953)と畜場法(法律第114号)の公布されるまで継続したものであって,その第6条に「市町村ニ於テ屠場ヲ設立スルトキハ地方長官(東京府ニ於テハ警視総監)ハ必要ト認ムル地区内ニ於ケル私設屠場ノ廃止ヲ命スルコトヲ得」とあり,また,第8条には「内務大臣ハ必要ト認ムルトキハ屠場ノ設置ヲ市町村ニ命スルコトヲ得」とあって,公営優先の思想が顕著であった。
 明治15年(1882)9月2日,御野郡南方村(現岡山市)に屠牛所が設立されたとあるのが,岡山県において記録にみえる屠場のはじめてのものである。明治17年(1884)12月には,県下の屠牛所は8ヵ所となり,美作1,備中2および備前5であった。備前では津年郡富原村(現岡山市富原)に2ヵ所,邑久郡福山村(現邑久町)に1ヵ所,同宿毛村(現牛窓町)に1ヵ所,上道郡綱浜村(現岡山市)に1ヵ所であった。同年11月中の屠牛頭数は600頭であった。
 明治35年(1902)における屠場数は28ヵ所であって,ほとんどの郡に1−3ヵ所散在していた。当時は全国的な傾向として,その地域の食肉需要に見合った頭数だけ屠殺するため,小屠殺場が散在していたのであろう。
 食肉の組織的な消費は,軍需としての性格をもって始められた。まず,明治2年(1869)に海軍において栄養食として牛肉を採用した。明治19年(1886),陸軍省においては各兵営兵率食料改良の目的をもって,京都府ほか15県に対して,牛の購入について照会を出した。明治17,8年(1884−85)ごろ,軍隊帰りから一般市民に肉食が普及するようになり,一般の牛肉消費が伸びた。このごろの海軍々人の食料を参考までに示すと表2−6−41のようであった。

 明治27年(1894)の日清戦争,同37年(1904)の日露戦争の勃発により,牛肉の需要が急増した。これは,出征兵士向けの缶詰と,捕虜への食肉の供給という軍需の急伸によるもので,このために,屠殺も需要に対応して伸びてはいるが民需は圧迫された。
 日露戦争終結後の明治39−40年(1906−07)には飼養頭数が激減して,農耕にも支障を来すほどになった。戦後の不況,牛肉価格の高騰などのため,一時需要は減退したが,その後消費は着実に伸びている。大正年代になって盛んに移入されるようになった朝鮮牛は,日露戦争後の牛不足を補うために移入が急に増加している。
 明治40年(1907)における県内の屠場数は,21ヵ所と各郡市に1−2ヵ所ずつ散在し,一屠場当たり年間屠殺頭数は,岡山の724頭を除けば,上道郡の270頭が最も多く,少ないものは僅か5頭というものがあった。このように,当時は,地域に小屠場が散在していたわけで,年間100頭未満の屠殺頭数のところが半数もあった。1頭当たり平均枝肉重量も地域により大きな開きがみられ,枝肉単価にもかなりの格差がみられることもあわせ考えて,当時の肉牛の生産と牛肉の流通の後進性がうかがえる。

   2 牛肉の価格と品質

 明治年代の牛肉卸売価格の推移をみると,30年(1897)に100斤当たり11円(1キログラム当たり18銭)が,消費の急増により33年(1900)には20円に急騰している。(同年の岡山県における米価は石当たり10円7銭4厘)そのため消費の伸びは一時停滞した。日露戦争後は,牛肉消費が広く一般に普及したため,40年代になると消費の伸びは著しく,明治30年(1897)ごろの約2倍となった。卸売価格は,明治37年(1904)に22円,38年(1905)31円と急騰したが,その後は鎮静し,明治末期には20円前後となった。
 明治年代の牛肉の品質は,16,7年(1883−84)ごろ,牛肉消費の伸びをみて。兵庫,滋賀,三重,山口,愛媛の各県で肥育がはじめられるまでは,農耕運搬に供用したあとの老廃牛であったので,良質のものとはいえなかった。また,小売段階における牛肉の部位,等級は,ロース,ヒレ,上肉,中肉,並肉というように簡単な分類によるものであった。
 農林省畜産局(昭和41年)の『畜産発達史(本篇)』により,牛肉の卸売および小売商の利益をみれば次のとおりであった。農商務省畜産課員が,明治43年(1910)2月および9月に卸売調査を,翌44年(1911)2月に小売調査を,いずれも東京で行なったものによれば,卸売商は,その元資金に対し1頭につき約5分1厘,小売商は約3割5分の利益があったとしている。
 なお,当時の大阪府技師山脇圭吉の調査した,大阪における卸小売の収支は,元資金に対して卸で2分1厘,小売で2割7分3厘となっていた。