既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第2章 和牛(肉用牛)の変遷

第6節 和牛(肉用牛)の流通

3.牛肉の流通

(3) 昭和戦後期における牛肉の需給

 戦後の深刻な食糧危機と急激なインフレの高進は,国民生活を混乱と不安のどん底におとしいれた。終戦の年は米の大凶作で,585万トンは平年作の6割の収量で,配給の正規のルートに乗らない闇米の横行で,配給量は野菜や魚などを含めても1人1日当たり1,200カロリー程度に落ちこんで,庶民は毎日を生きるのが精一ぱいという混乱状態であった。
 一方において,日々高進するインフレは,政府の経済緊急対策も容易に奏功することなく推移したが,昭和24年(1949)ドッジライン(デフレ政策)の指示とともに同年4月1ドル360円の単一為替レートが設定された。その後の経済安定政策は,緊縮財政と360円レートを軸に展開され,インフレも急速に鎮静化した。
 戦後いち早く価格統制が撤廃されたのは生牛であった。一方,食肉価格の統制は継続されたので,食肉業者は,公定価格によっては商売がなりたたなかった。消費者側としては,大阪主婦の会が牛肉を槍玉にあげて,「ヤミ不買」,「物価値下げ」運動を展開するありさまであった。この間のくわしい経緯については,畜産振興事業団(昭和53年)の『牛肉の歴史』に述べられている。とにかくこのような情勢の中で,昭和23年(1948)8月25日,物価庁告示をもって食肉小売統制価格が公表された。
 食肉の統制価格が撤廃されたのは,食肉の出回りが豊富になりだした昭和24年(1949)8月25日であった。

   1 食肉需給動向

 終戦後の県内における枝肉生産量の推移は,付表3−2に示すとおりで,昭和25年(1950)になると牛肉の需給は戦前の水準をこえた。その後も大勢としては確実に伸び続け,同30年(1955)には,2,500トンをこえ,同51年(1976)には30年の(1955)約2倍になった。これは,その間における屠殺頭数の伸び(乳用牛の屠殺が昭和47年以後は成牛全体の半数をこえたも)によるが,あわせて昭和40年代後半から急速に増大した1頭当たりの枝肉重量に基因するところが大きい。
 昭和40年代以降の県内屠殺頭数の肉牛生産頭数に占める割合は,ほぼ60−70%で推移している。また,昨今食肉関係者からのきき取りによれば,県内で屠殺されるものは,ほとんど県内消費向けのものであって,県外へ仕向けるものは,ほとんど生体で移出するということであるので,県内における枝肉生産量の伸びは,そのまま消費の伸びにつながるものとみられる。
 つぎに,食肉全体の中で牛肉の占める割合は,表2−6−46のとおりであって,明治,大正時代の3分の2ないし過半数という割合から,次第に低下して,昭和40年(1965)には25%,同45年(1970)には2割を割り,昭和52年(1977)には約15%となっている。

  2 価格の推移と政府の施策

 昭和30年代以降における価格(産地,卸売および小売)の推移は図2−6−5のとおりである。これによると,卸売,小売価格とも昭和40年(1965)から同50年(1975)にかけて大幅に値上りしている。めだつのは,石油危機に当たる48年(1973)に5割もの暴騰を示したことである。昭和49年(1974)には総需要抑制策などの影響により卸売価格はほぼ横ばいであったが,小売価格は3割の値上りであった。この年の産地価格は約1割安で,生産者は高いもと牛に高い飼料を与えたうえ,肉牛の安値に泣かされ,1頭売れば10万円の赤字という惨状であった。昭和50年(1975)の値上りも大幅であった。卸売価格の激動は,産地価格に反映し,ひいてはもと牛価格の暴騰,暴落を招いた。昭和47年(1972)度平均165,000円だったもと牛価格が,48年にはいり急騰に転じ,10月にはピークの433,000円に暴騰した。これが,石油危機により暴落に転じ,49年(1974)11月には底値の155,000円になった。

 ここで,牛肉の流通段階別価格についてみれば表2−6−48のとおりで,これによって生産者の手取り,各種流通マージン率などがうかがえる。

 政府は49年(1974)2月以降緊急措置として,牛肉の輸入調整,生産者団体による調整保管措置をとるとともに,牛肉も豚肉と同じように畜産振興事業団による市場での売買操作を行なって価格安定を図ることとし,「畜産物の価格安定等に関する法律」の一部を改正,50年(1975)5月から実施することにした。
 農林省は,昭和49年(1974)1月,畜産局長名で大衆牛肉の小売価格を値下げするより行政指導するとともに,同年2月1日から牛肉の輸入を凍結した。これは全国農業協同組合連合会ほか生産者団体の輸入抑制の強い要望をいれたことによる。
 つぎに,牛肉の調整保管については,農林省は,牛肉輸入の凍結だけでは市況が回復しないので,市場へ出荷される国内産牛肉(乳用おす牛)について生産者団体に調整保管させ,これに要する経費を畜産振興事業団から助成することにした。49年(1974)3月から全国農業協同組合連合会等4団体が,約2,000トン(約6,000頭分を目標として6月12日まで買入れ保管した(第一次)。しかし,乳用肥育おす牛の出荷は増加する一方で,枝肉卸売価格は1キログラム当たり770−780円(規格「中」,東京市場)に落ちこんだので,引き続き全農および岐阜,愛知,三重,岡山,徳島および香川の各県経済連により,目標数量3,300トン(約1万頭分)として9月18日まで買入れ保管が行なわれた(第二次)。その後,卸売価格に上昇のきざしがみえだしたけれども,当初設定した調整保管牛肉の販売指標価格1,100円(規格「中」,東京,1キログラム当たり)にまだかなりの開きがあったため,さらに期間を延長して,全農および岡山県経済連によって調整保管を継続し,卸売価格が1,000円台に回復した50年(1975)1月中旬までに約1,700トンの買入れ保管が行なわれた(第3次)。これら調整保管した牛肉は,同年5月10日までにすべて販売された。
 第1次における岡山県内での調整保管量は,約400頭程度であって,ついで,岡山県経済連が行なった調整保管は,第二次分417頭(乳用雄牛),第3次分30頭(和牛去勢)であった。
 政府は,昭和50年(1975),「畜産物の価格安定等に関する法律」の一部を改正し,5月1日から,牛肉を指定食肉に加えた。指定食肉制度は,一定規格の食肉を指定し,これが中央卸売市場などで一定の価格安定帯の範囲内で推移するよう,畜産振興事業団が価格操作を行うようにするものである。指定食肉の安定価格は,政府が畜産振興審議会に諮問して毎年度決定するもので,昭和53年度には,はじめて前年度並みに据置きの去勢和牛肉(安定基準価格1,303円,同上位価格1,730円),その他の去勢牛肉(それぞれ1,061円および1,408円)と決められた。

   3 牛肉の輸入

 昭和前期までの牛肉の輸入については,既述したとおりである。ここでは終戦後今日までについて概述することにする。現在,牛肉は政治品目の一つとして,輸入自由化を迫られている。牛肉が今のように非自由化品目として,輸入割当制とされたのは,昭和33年(1958)からである。表2−6−49にみるように,昭和45年(1970)までは,牛肉の国内自給率はほぼ90%であったが,その後,牛肉の消費増による輸入量の増加とともに自給率は低下して,年により変動はあるものの,最近は70%前後となっていて「農産物の生産と需給の長期見通し」による,昭和60年目標の86%にほど遠い状態となっている。牛肉は世界的にみて不足する見通しであり,国際流通量は,生産量の5%程度と見られているので,安易に輸入に依存することはできないので,すみやかに国内での生産増強が望まれている。一方,消費者がわからは,国内の牛肉の高値のため,安い輸入牛肉をより多くと望んでいる。また,対外貿易の見地からは,工業製品の輸出による貿易収支の黒字べらしのための政治品目として,牛肉がオレンジなどとともに名ざしで自由化を迫られている現状である。

   4 食肉流通機構の整備

 食肉は,特殊な処理過程を経る生鮮食料品であって,その流通過程はきわめて複雑であるため,公開市場取引きが早くから要請されながら容易に実現をみないまま推移した。
 戦後の食肉需要の急速な増大は,食肉流通市場の合理化,近代化を推進することになり,昭和33年(1958)1月,わが国ではじめての食肉中央卸売市場が大阪市に開設され,その後昭和50年(1975)までに東京など10ヵ所の中央卸売市場が開設された。
 また,地方都市の中には,中央卸売市場法に準じた県条例を制定して,地方公共団体を開設者とする食肉市場を開設するものが,昭和33年(1958)開設の四日市市営食肉市場をはじめ,同50年(1976)までに15ヵ所開設された。岡山県営食肉市場は四日市市場についで,37年(1962)8月1日に開設された。
 これらの中央および地方食肉市場は,昭和46年(1961)6月から,従来の中央卸売市場法にかわる「卸売市場法」の施行により,それぞれ中央卸売市場食肉市場,食肉地方卸売市場とその名称が改められた。
 地方における食肉センターは,屠畜場を設備し,地方における食肉取引きの近代化を推進し,産地,農村における食肉消費を拡大するとともに,消費地に対して枝肉,部分肉の出荷基地となるものであって,とくに遠隔地の生産者は,家畜商や食肉問屋に従属した取引きから生産者団体による共同出荷あるいは自ら肉畜を出荷する度合いを強めることになった。
 ここで,産地食肉センターから枝肉として東京中央卸売市場へ出荷されたもの(搬入枝肉)と,生体入荷のうえ枝肉としたものとの取引価格の動向をみれば,搬入枝肉は,生体で入荷したものにくらべて約2割方たえず安値であることは,輸送方法に改善の余地はあるものの,取引改善上問題を投げかけている。
 最近は骨ぬき部分肉としてチルドの状態で真空包装して流通するものが多くなった。

   岡山県営食肉地方卸売市場

 岡山県は,前近代的な食肉流通を改善して,生産者の肉畜生産意欲の高揚を図り,一方,消費者に対しては適正価格により食肉を供給するねらいで,中央卸売市場法に準じた岡山県食肉市場条例に基づく岡山県営食肉市場を,昭和37年(1962)8月1日から開設し,業務を開始した。この市場は,岡山市営屠畜場のあとを受けついたもので,岡山県営と畜場条例に基づく県営屠畜場と同時に併設されたもので,肉畜の屠殺解体(1日の処理能力は,牛馬100頭および豚100頭)から枝肉のせり取引きまで一貫して機能的に処理することができる近代施設を備えたものである。昭和48年(1973)1月1日,卸売市場法による岡山県食肉地方卸売市場(以下県営市場という)へと,名称を変更した。
 この市場が県営として開設されるまでには,次のような経緯があった。はじめ,岡山市が市営屠畜場の経営を廃止しようとしたのに端を発し,食肉関係業者らがこれを継承しようとする動きがあった。県農林部は,食肉流通の近代化のため,近代的な設備をもった食肉市場の開設の必要性を痛感し,中央卸売市場に準じた食肉市場の建設を企図した。したがって,この市場が誕生するまでには,関係業界との間の意見調整に必ずしも波乱がなかったわけではない。しかし,関係団体等の理解と協力により,総意を結集することができ,県営市場の開設が実現したのである。

   広域食肉流通センター

 岡山県は,増大する食肉需要に対応して,食肉流通の近代化を進めることにより,肉畜生産者の所得の増大を図り,一方,消費者の食肉流通についての理解を得ることをねらいとして,次のような構想のもとに,「広域食肉流通センター」の設置を計画し,具体的に用地の選定を行なう段階となっている。
   1 県内および東中国各県(香川県を含む)から,現在主として京阪神へ生体で出荷されている肉畜を,集荷の上,屠殺解体し,部分肉に処理加工して,大口消費者ならびに地域食肉小売店へ安定的に供給する。
   2 施設の処理能力は,豚換算1日800頭(牛60頭,豚600頭)とする。
   3 岡山県農業団体および畜産振興事業団をもって構成する法人を事業主体とする。
   4 用地は,関連企業用地を含め,約15−20ヘクタールを予定し,緩衡地帯を設けた工場公園的な施設とする。
   5 建設費総額は,約30億円の見込みとする。
 なお,集荷する肉畜は,現在各県から消費地市場へ生体出荷しているものに加えて,将来増産されるものを見込むことにより,原則的に既存の屠場ほか関係施設およびその機能に対しては影響を与えないことになっている。

   岡山県食肉荷受株式会社

 岡山県営食肉市場が昭和37年(1962)8月から業務を開始したのに伴い,中央卸売市場法に定める指定卸売人として「岡山県食肉荷受株式会社」が同年7月から業務を開始した。開業以来各年における事業取扱量は,食肉市場へ入荷するもののうち,牛枝肉については,はじめ50%程度から現在3分の2程度まで漸増し,豚枝肉については,はじめ6割程度から現在約9割程度となっている。
 受託販売手数料は,総売上金額の3.5%であって,次のように精算のうえ,仕切金は枝肉販売の当日または翌日支払いとなっている。

   受託肉畜精算方式

    A売上金額(枝肉売上金額(ア)+原皮売上金額(イ)+頭および内臓売上金額(ウ))−B控除金額(と畜物残費(ア)+受託手数料(イ))=C仕切金(出荷者手取金額)
     なお,枝肉売上金額は枝肉重量×せり値とし,原皮は1枚につき時価,頭および内臓は時価(枝肉1s当り単価で算出する)となっている。
 設立に当たっては,岡山市と畜協会,岡山県総合畜連,岡山県家畜商業協同組合,岡山県経済連の4者の共同出資であったが,農林省畜産局(昭和41年)の『畜産発達史』(本篇)によれば,資本金1,500万円の内訳は,県総合畜連250万円,県経済連100万円,食肉業者900万円,家畜商200万円。その他一般50万円となっている。

   岡山県食肉センター

 昭和46年(1971)6月,株式会社岡山県食肉センターが最新設備を整えて発足した。この施設は,国および県の食肉流通対策費から補助金を得て設立されたものである。ねらいとするところは,急速に伸びる食肉需要に対応して,食肉処理(部分肉製造)の合理化により,食肉流通の近代化を促進することにあり,取り扱う枝肉は岡山県営食肉市場から仕入れ,仕向先は地元の学校給食,業務用等の大口需要その他への卸売りとなっている。

   食肉小売商関係団体

 岡山県一円を区域とする岡山県食肉事業協同組合連合会(県肉連,会長野中貞一)は,昭和41年(1966)5月11日設立され,全国食肉事業協同組合連合会(全肉連)の構成員となっている。この組合は次の4つの組合をもって構成されている。すなわち,東部食肉事業協同組合(岡山市桜橋 県営食肉地方卸売市場内),西部同(倉敷市小島),北部同(津山市山下)および備北同(高梁市南町)がそれである。

   5 肉牛(枝肉)の系統団体による取扱い

 昭和40年(1965)に,岡山県総合畜連が岡山県経済連に合併してからのちの各年における肉牛の系統出荷の実績は,表2−6−50のとおりである。これをみれば,最近の約10年間は,肉牛生産頭数の3分の1ないし40%程度の系統出荷実績であって,その内訳は,県内出荷が60−85%位(うち県営食肉卸売市場へ32−38%),県外出荷が40%程度から漸減して,ここ1−2年は15%程度となっている。おもな県外出荷ルートは,昭和50年代になると姫新線沿線地帯から姫路市場へのものがほとんどを占めるようになったが,それまでは,姫路市場が主体をなしてはいたものの,大阪市,神戸市,羽曳野市(大阪府)などへの出荷も年々数パーセントずつあった。

   岡山県経済連ミートセンター

 昭和37年(1962)9月,岡山市磨屋町農業会館地下に食肉の直売店を岡山県経済連が設けたのが,ミートセンターの初まりである。39年(1964)9月には,岡山市桑田町に処理場を設け,パック詰めの小売牛肉を中心に,農協等をとおして,生産者に安価で良質の牛肉を還元するねらいで,年々表2−6−51のような事業実績を積んで来た。昭和52年(1977)7月からは,岡山市藤田地区に新設の経済連総合流通センター内の現在のミートセンターに移った。

   6 枝肉の価格

  牛枝肉取引規格と格付け

 昭和30年代になると,食肉の需給の増大に伴なって,流通の近代化,合理化が要請されるようになった。昭和33年(1958),わが国ではじめての中央卸売市場食肉市場が大阪市に設けられ,ついで,大宮,名古屋,福岡,横浜,広島などに設置された。しかし,このころまでは全国的に統一された食肉の取引規格はなく,それぞれの取引慣行によって取引きされていた。そこで,市場などにおいて全国的な取引規格により枝肉の公正かつ円滑な大量取引きを推進する必要が痛感され,農林省の指導のもとに,規格制度のあり方に種々検討が加えられ,昭和36年(1961)に牛枝肉取引規格が設定された。これに基づいて行なう格付事業は,社団法人日本食肉協議会(昭和50年2月からは日本食肉格付協会)に実施させることになった。
 牛枝肉の格付事業は,年々拡大され,昭和53年(1978)末現在における格付場所数は中央卸売市場では東京など10ヵ所,地方卸売市場では岡山など16ヵ所,地方食肉センターでは新津(新潟県)など37ヵ所合計63ヵ所(豚だけ取扱うものを含む)において,年間490,274頭(全と殺頭数に対して41%の格付率)の格付けが行なわれた。規格は,その後昭和46年(1971)と51年(1976)の2回改訂されて現行のものになった。また,格付事業は,実際には昭和38年(1963)から実施され,岡山県においては40年(1965)11月から,県営食肉市場において実施されて現在に至っている。
 格付結果について記録の明らかなのは41年(1966)以降である。格付頭数は,同年2,560頭,42年2,634頭,43年3,345頭,44年4,282頭,45年5,225頭(同年の屠殺頭数100,206頭に対する格付率は51%)と推移し,46年(1971)以降は表2−6−52に示すとおりとなっている。

 昭和46年(1971)から52年(1977)までの格付成績を概観すれば,格付頭数に対する格付頭数の割合)は,52%から漸増して67%と全体の3分の2になっていて,これはそのまま自家用屠殺が減少して,市場上場率の向上を示すものとして望ましい傾向を示している。和牛と乳牛とに分けて,各等級への格付割合をみれば,まず,和牛においては,つねに「特選」は1%内外であって,「極上」5.4%ないし1%とあわせても,全体からみれば微々たるものである。「上」は22.7%から52年には7.3%になっている。このように「上」以上の割合が急速に減じている反面,当然「中」,「並」が増加していて,和牛枝肉の生産目標は「上」以上にあるにもかかわらず,この現状はいろいろ問題を提起している。
 岡山市場における,枝肉は,温と体で格付したうえで,温と体でせり売りされている。格付の原則は冷と体で,一定部位でロースを切開(部分肉取引規格および畜安法による指定食肉の場合は第5−6肋骨間切開)したものとなっている。岡山市場でのロース切開部位は,第8−9肋骨間となっている。格付等級のきめ手となるロース芯の脂肪交雑は,ロース切開部位がうしろになるほどにぶくなり,また,温枝肉の場合は小ザシは肉眼で確認できないものが多い。このような条件の不備が,格付成績を全国平均より悪くしている原因の1つとして指摘することができよう。冷蔵庫など施設の拡充を伴わなければ実施困難ではあるが,冷却枝肉として,ロース切開部位も前へ変えたうえで格付けし,せり取引きすることが望まれる。
 牛枝肉重量が,近年大きくなり過ぎていることが問題となっている。仕上げの月齢を大きくし(肥育期間を延長し),仕上がり体重(枝肉重量)を大きくするのは,枝肉評価のきめ手となっている脂肪交雑をよりよくしようとのねらいからにほかならない。しかし,和牛の産肉生理からみれば,肉質の改善されるのは24ヵ月齢までとみられていて,それ以後の飼料効率のよくない月齢の肥育は,経営上取るべき策でないとされている。最近の東京市場などでは,枝肉重量は360キログラム(半丸170−180キログラム)位が好適重量とされ,また,サシは十分であるが,余剰脂肪が問題となるような重量過多の枝肉の出回りが問題だとされている。枝肉重量は,現在程度以上になることは種々な点から好ましくないとされている。岡山市場の枝肉重量は,平均値でみるかぎり,和牛の場合全国平均よりまだ小さい傾向にあるといえる。
 なお,枝肉の評価方法には,右のように取引きの現場で実施されている枝肉取引規格に基づく格付のほかに,「牛枝肉審査標準」による採点審査の方法がある。格付によるときは「特選」から「等外」までの6等級にランクづけされるので,同一等級のものの中にも,かなり品質に格差が生ずるので,審査標準による採点法をとれば,同じ「極上」に属する枝肉でも,一方は85点,他の1つは80点というように,こまかく評価できるので,枝肉共進会などにおける審査は,これによるのが適当とされている。
 つぎに,過去において生体から枝肉へ,流通形態が変化したように,こんご食肉流通の大規模化,広域化に伴い,部分肉流通が増大する傾向が著しい。昭和52年(1977)における牛部分肉製造量は92,000トン(対前年比130.2%)で,輸入牛肉82,000トンを加えると,牛部分肉流通量は全流通量の51.6%に当たる174,000トン(枝肉換算249,000トン)となり,豚のそれを凌駕した。部分肉へ仕向頭数は牛で40万頭(全と殺頭数に対する割合は36.3%)となっている。日本食肉格付協会は,昭和51年(1976)7月から,部分肉取引規格に基づいて,部分肉の格付事業を開始した。しかし,岡山県においては,牛部分肉流通は,とくに取りあげるほどの進渉状況を見せていないし,部分肉格付けもまだ実施されていない。

   水引き

 枝肉取引上,「水引き」と称して,実際の重量から一定量(率)の目減りを減じて,取引上の重量とする習慣が,食肉市場には昔から存在している。岡山市場では,温屠体取引きであって,3%の水引きをしている。もし,冷屠体の場合は水引なしである。東京市場では現在冷と体取引きであるが,水引きは冷と体重の1%となっている。大阪市場は温と体取引きであって,水引きを3%としている。多くの市場が温と体の3%水引きというのが一般的である。水引きは取引慣習の前近代性の1つのあらわれというべきもので,将来好ましいあり方としては,冷と体取引きにして,水引なしということが望まれている。
 目減りの調査は,岡山市場において,昭和38年(1963)3月から翌年5月まで行なわれた。枝肉の目減りは,冷蔵室の温度,湿度,空気の流速などにより影響を受け,また,枝肉の重量,品質,肉牛の品種などによっても異なるものであるが,この調査でも,これらの傾向が現れていたということである。日本食肉協議会が,昭和43年(1968)に,22頭の枝肉について調査したところによれば,と殺直後の温と体重に対して,24時間冷蔵したものは,和牛で1.4%,乳牛で2.0%の減耗であり,48時間冷蔵ではそれぞれ1.6%と2.3%であったという。