既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第4章 養鶏の発達

第1節 概説

1.養鶏のはじまり

 岡山で,にわとりを誰が,最初に飼って生活の糧にしたのか,確かな記録が見当たらない。
 しかしながら,神話の時代か,縄文・弥生式文化の年代ににわとりを家畜として飼っていたことは,疑いのないところで,このことは,古い時代の古墳が県内各地で数多く発見され,これらの古墳から出てくる遺物の中に,写真のような鶏埴輪があることで明らかにされている。
 さらに,伴信友(明治16年)の『本朝六国史』,矢吹正則(明治12年)の『美作略史』などに,美作の国から朝廷に白鶏・白雀などを献上したと書かれている。白鶏は,豊年を祈る祭などの貴重な献物として取り扱われていたという。
 温暖な,瀬戸内地方の気象条件が,人がにわとりとともに生活する地域として,適していることは,古い時代も,現代も変らないし,適した条件のもとで,生産されたたまごやにわとりの肉は,大切な食べものであり,ある時は,薬として使われていたものと考えられる。
 このようなことを考えながら,近世までの時の流れをたどってみると,天武天皇は深く仏教を信じられ,延元元年(1336)に詔令を出して,牛・馬・犬・猿・鶏の肉食を禁止し,さらに聖武天皇も天平2年(1730)に,殺生を禁じている。このことから,大衆が当時動物の肉を食用としていたことが分かる。卵を食べることを禁じた文献はないようであるから,一面では鶏を飼うことの奨励になったとも考えられる。
 県内の記録では,岡崎誠(昭和48年)の『上道町史』によると。天保2年(1831)ごろに,万請代(小物成)といって,魚や鳥などが税の対象となっていたと記されている。このことから,相当な数の鶏が飼われていたと考えてもよかろう。
 徳川5代将軍綱吉が「殺生あわれみの令」を制定した22年間を経て,幕末の諸外国と交易により,数多くの鶏が輸入されているが,ミノルカ種は文化(1804−17)・弘化(1844−47)・安政(1854−59)のころに英国船で渡来し,コーチン種も安政年間(1854−59)に入り,これを9斤と称した。
 岡山県内務部(昭和9年)の『畜産要覧』によると,エーコク種のT種が岡山で作出されたとして,「エーコク種は,英国または備中英国と称し,年代は不明であるが安政以後であろうか,浅口郡長尾村(現倉敷市玉島)または都窪郡の医師が,英国に外遊する友人に種卵を購入して帰国するよう依頼していた。その友人は帰国する時に種卵の購入を忘れ,上海まで帰ってからコーチンの種卵を買い,英国で求めて帰ったと医師に渡した。医師は,地鶏と交配しT種を作出した。これがエーコク種という名称の起源である。淡色のものはバブコーチンから,黒色のものは黒色コーチンから出たもので,淡色のものは足が長く,黒色のものは粗野でオーピントンに似ているが,同種より足が長く,卵が大きく,体質は強健である。淡色のものは名古屋コーチンに似ているが,同種より体高が大きく,体重は5斤〜8斤(3.0〜4.8キログラム)であり,名古屋種より弱いという人もあるが,本県では非常に強健で,実用鶏として適している。産卵数は,1カ年150〜200個以上のものもいる。卵重は、1個16〜17匁(60〜63グラム)で,淡黄色の卵殻である。今日では,エーコク種の純粋なものは少ない。」と書かれている。
 また,この異説として,玉島港に入港した英国船から食用卵として上海で購入していたものを譲り受け,これを孵化して改良を行なったとされている。恐らくこれが真実だという人がある。
 その起源は不詳であるが,県内でいい伝えられていた,鶏にまつわる迷信に次のような言葉がある。すなわち「妊婦が卵を食うと毛のない子が産まれる」,「妊婦が初卵を食うと産が軽い」,「にわとりの夜なきは火事の知らせ」,「にわとりが宵なきすれば,家事に変事が起こる」などである。これらは,非科学的なものであるが,これによって卵が古くから一般の家庭に浸透していたことが理解できる。