既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第4章 養鶏の発達

第1節 概説

3.昭和年代の養鶏

(1)昭和前期の養鶏

 大正時代の末期から鶏卵の需要が増加し,品不足の状況となったので,中国・朝鮮などから鶏卵を輸入する状態であった。一方,農村の不況は深刻で,これを救済するため積極的に養鶏奨励が行なわれた。このため1戸当たり平均飼養羽数は,10 羽程度となり,1羽につき3円内外の利益を得ていた。この結果,昭和5年(1930)ごろから鶏卵は生産過剰の傾向となり,これに加えて一層深刻化した経済不況のために,鶏卵の需要は減退し,卵価は10年来の暴落となった。この時の飼育戸数は7万9,000戸,飼育羽数は103万羽であった。岡山市で鶏卵1キログラム当たり,昭和4年(1929)には68銭前後であったものが,7年(1932)には44銭となっている。このため鶏卵の消費拡大運動,鶏の能力的な改良,飼育管理技術の向上,飼料価格の安定化などに努めた結果,昭和9年(1934)下半期ごろから再び養鶏が盛んとなってきた。
 昭和12年(1937)日革事変が勃発し,戦時下の統制的な色彩が強まり,養鶏もその影響を受け初めた。このころの養鶏は,経営規模が小さく,農家の副業としてのみ考えられていたけれども,昭和15年(1940)には,米,麦,い草,養蚕についで第5位の710万円の粗生産額をあげ,本県の重要な産業となった。同年3月には,県から市町村に対し養鶏団体の拡充強化の方針を指示し,市町村養鶏組合の設立,改組,拡充が積極的に展開された。
 しかしながら,昭和16年(1941)には第二次世界大戦に突入し,飼料,鶏卵等の本格的な配給統制時代となり,労働力の不足などから,養鶏は足踏み状態となった。
 採肉養鶏については,人工孵化技術の進歩と,初生雛雌雄鑑別技術の実用化によって,雌雄鑑別により不要となった雄雛を育てて肉利用することが注目されはじめ,いわゆる抜雄仕立てといわれ,採卵養鶏の副業として行なわれるようになった。しかしながら,鶏肉の消費量はまだ少なく,相場も安定していなかったので,ある程度は投機的なものであった。