既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第4章 養鶏の発達

第2節 養鶏の展開

1.採卵養鶏の発展

(1)明治年代の採卵養鶏

 明治年代の養鶏は,愛玩用を主として飼われ,卵や鶏肉の生産は副産物であったと見るのが妥当であろう。当時の本県における記録は少ないが,高見章夫(昭和17年)の『小田県史』によると,明治7年(1874)には鶏2万6,675羽,鶏卵10万4,160個,鴨32羽,鶩99羽,雉子235羽が飼育されていた記録がある。小田県は,現在の岡山県の備中地区と広島県の備後地区を行政区域としており,その面積と人口密度に比べると非常に小規模な飼育状況であったことがうかがわれる。
 明治11年(1878)になって,岡山市内で最初に谷川達海(1852〜1921)の父が鶏屋を開業したことが吉岡三年(昭和49年)の『岡山事物起源』に出ている。具体的な事柄については不詳であるが,鶏卵・鶏肉の消費が,この年代から定着し始めた証拠であろう。
 全国的には,明治17年(1884)に至り,国民生活の向上と人口の増加によって,国内産の鶏卵のみでは品不足となったので,中国から食卵の輸入が始められた。これが契機となって,明治20年(1887)ごろから全国各地で養鶏団体が整備されるようになった。
 明治21年(1888)には,全国で初めての家禽調査が行なわれた。これによれば,全国の鶏飼養羽数は910万9,946羽,産卵個数3億7,973万8,902個であって,岡山県のそれは,20万9,222羽,891万6,214個であった。第2回の家禽調査は明治35年(1902)に行なわれたが,このとき全国の飼育羽数は1,227万1,410羽,産卵個数8億391万7,086個であり,岡山県ではそれぞれ27万5,897羽,4,722万4,533個であった。さきの第1回調査と比較してみると,飼育羽数では,全国で134.7パーセント,岡山県では131.8パーセントとなっている。産卵個数では,全国で211.7パーセント,岡山県では529.6パーセントとなっており,岡山県の生産量が全国に占める割合は,明治21年(1888)には2.3パーセント,35年(1902)には5.8パーセントとなっている。
 明治21年(1888)の鶏卵価格を『牧畜雑誌』(第2号および第5号・(明治21年))でみると表4−2−1のとおりである。これによると,明治20年代でも現在と同じく,年末には価格が上昇していることが分かる。さらに当時の米価は,1キログラム当たり2銭3厘9毛であったので,鶏卵価格は,米価の8〜9倍であったことが分かる。現在は鶏卵価格の方が米価より安く,時の流れを強く感じさせられる。

 明治20年(1887)ごろであろうか,石川県が全国の各府県に照会して調査した鶏卵の価格は,岡山県では鶏卵1個当たり1銭5,6厘,平均1銭,5毛であり,全国平均では前者1銭3厘1毛〜1銭8厘2毛,後者1銭6厘5毛であったとの記録がある。このころ,外国から導入された種鶏は,1羽が数10円,数100円で,種卵が1個1円から5円であったという。
 岡山市における明治初年の鶏卵価格は,表4−2−2のとおりであった。現在では,鶏卵1個は10円前後であり,豆腐1丁は60円前後である。 

 明治28年(1895),県令第48号で農会設置規定を定め,町村・郡農会の設立を奨励した。
 明治36年(1903)3月27日の『山陽新報』によると,「川上郡農会では,副業として養鶏を奨励し,1戸ごとに雄鶏1羽,雌鶏2羽を飼育させ,産卵個数の多い者に賞を出すなどしたので,飼育戸数195戸,鶏789羽になった。飼育されていた鶏の種類は,アンダルシャン,レグホーンなど」と報道されている。1戸当たりの飼育羽数は約4羽で,当時の飼育規模はこの程度が標準的なものであったようである。
 明治38年(1905)から,養鶏に関する統計が公表されるようになった。この年の全国の羽数は1,604万4,000羽であって,本県では,成鶏12万9,857羽,雛8万4,578羽で,全国に占める比率は1.24パーセントであった。一方,政府は各府県に対し,養鶏奨励の訓令を発したのでこれによって各種の施策がとられ,とくに全国各地で品評会が盛んに行なわれるようになった。
 これを受けてか,本県でも明治39年(1906)10月,上道郡農会の主催で畜産品評会が雄神村(現岡山市西大寺)で開催され,鶏24点が出品されている。さらに,翌40年(1907)4月に,第4回旭東4郡(和気・邑久・上道および赤磐郡)連合畜産共進会が邑久郡大宮村(現岡山市西大寺)で開催され,家禽が70点出品された記録がある。
 明治41年(1908)から岡山県立農事試験場に種禽園を設け,種卵の払下げを開始している。この年,邑久郡農会では養鶏部を設け,鶏卵や資材の協同購入販売事業を行なっている。 
 岡山市役所(昭和41年)の『岡山史(産業経済編)』によると,養鶏は農家の副業の中で主要なものであって,明治41年(1908)には鶏卵21万7,888個を生産し,生産額にして6,104円であったが,大正元年(1912)には39万9,000個,生産額にして8,266円に増加したとしている。
 上道郡教育会(昭和48年)の『上道郡誌』には,明治時代は地鶏で産卵数も少なかったとしている。上房郡教育会(大正2年)の『上房郡誌』によると,家禽の飼養が農家の副業として最も適しており有利であるが,本郡には非常に少ないのが残念であるとしていて,明治44年(1911)には養鶏農家数1,409戸で,6,663羽が飼われ,年間産卵量は31万3,563個で生産額は6,470円であったという。
 国政寛(明治33年)の『勝田郡誌』によると,明治44年(1911)には郡内に1万9,631羽の鶏が4,045戸で飼われ,その大部分が雑種であるが,純系のミノルカ,白色レグホーンが増加の傾向にあるとしている。
 明治39年(1906)から同44年(1911)までの岡山県の飼養羽数等は表4−2−3のとおりで,郡市別に見れば表4−2−4のとおりであった。

 明治40年(1907)ごろの県内における鶏卵の卸売価格は表4−2−5のとおりであって,地域による価格差は余り大きくなかった。
 鶏卵の県外出荷は明治30年代から行なっている。明治31年(1898)には東京・大阪に69万6,408キログラム,金額にして17万8,654円の移出を行ない,一方,広島から,1万6,500キログラム,3,320円の移入を行なっている。これからすると当時の生産者販売価格が1キログラム当たり20銭前後であり,小売価格が1キログラム当たり25銭前後であったことが分かる。