既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第4章 養鶏の発達

第2節 養鶏の展開

1.採卵養鶏の発展

(2)大正年代の採卵養鶏

 大正年代の岡山県の養鶏は,副業養鶏の域を出ていなかった。岡山県(昭和13年)の『岡山県郡治史』(下巻)によると,「本県の副業は,気候と,天恵の耕地の狭少と,進取的な県民性と,当局の指導奨励によって県南地域は全国有数の産地となった。副業の種類は非常に多く,其の数は200余種である」と書かれており,この中に養鶏も入っていた。
 国では,大正6年(1917)の特別国会において,副業奨励費を計上し,農務局に副業課を設置するとともに,各道府県に副業専任職員を設置した。さらに副業奨励規則により農村における副業養鶏組合を設立させ,副業組合の養鶏施設に対し,奨励金の交付等を行なった。
 大正7年(1918)の秋には,一般の物価が上昇傾向を示していたところへ,換羽のため産卵が減少し,あまつさえ,風水害等による入荷減のため,卵価が異常に高騰し,1貫(3.75キログラム)当たり5円以上という高値となり,小売相場は1個8銭から10銭になった。
 本県では,大正8年(1919)に至り,「畜産奨励規則」(農商務省令第12号)により家畜とともに家禽(種鶏もしくは卵鶏)共進会の優秀な出品に対し,賞金および賞品を授与している。このことを受けて,同年には岡山市で岡山県畜産組合連合会主催の第1回畜牛家禽共進会が開催されている。
 大正10年(1921)には,養鶏奨励施設補助金として,県から600円が支出された。このころの成鶏1羽1年間の産卵個数は約97個であった。
 大正11年(1922)には,岡山県知事の指示により養鶏生産物の取引改善を目的として,和気・邑久・赤磐・浅口の諸郡その他の郡農会が,家禽市場を毎月T・2回開催し,養鶏振興を図っている。
 岡山県では,この年代に成鶏めす羽数が30万羽の大台に乗った時であり,農業の副業としての養鶏が,農家所得のうえで,重要な役割りを果たし初めたといえる。
 当時の県内各地域における鶏の飼育状況等について,郡誌等の記録をたどってみれば次のようであった。
 邑久郡の養鶏は,従来から農産廃棄物利用として僅かに飼育されていたが,それも愛玩用で,少羽数であったと考えられる。その後,栄養改善と生活程度の向上により鶏肉鶏卵の需要が増加し,採卵鶏の飼育が盛んになってきた。このため邑久郡農会は,大正8年(1919)愛知県農事試験場技師,高橋広浩を講師として採卵鶏の飼育方法についての講習会を開催し,管理技術の改善を図っている。当時は,第一次世界大戦の直後であり,鶏卵の売れ行きが好調で,しかも価格も高かったので急速な発展を示した。続いて大正9年(1920)には,養鶏組合の整備を図るため,副業奨励規程を設け奨励金を交付し,各村・部落養鶏組合の設立に努めたため,郡内各地に組合が設立され,組合を設立していない村はなくなった。大正13年(1924)からは村を区域とする組合に再編整備を行なったところ,邑久,福田,今城,本庄,玉津(以上,現邑久町),笠加,豊,大伯,幸島,大宮(以上現岡山市西大寺),長浜(現牛窓町),国府,美和,行幸(以上現長船町)および鶴山(現備前市)の15カ村で整備された。これらの組合は,邑久郡農会の販売斡旋により,週ごとに神戸販売斡旋所や,その他の地方商人の競争入札により共同販売を行ない,好成績を上げた。当時,郡内には,成鶏3万1,200羽がおり,産卵重量156トン,生産額1万2,477円であった。
 上道郡での養鶏は,家庭用の縁の下養鶏で主であって,各家に4〜5羽,大型のもので20〜30羽程度のものであった。明治時代はいわゆる地鶏で,産卵個数も少なかったようだが,大正10年(1921)ごろになり郡農会の副業奨励が盛んになり,養蚕,果樹,養鯉などとともに養鶏事業も盛んになってきたが,自家用と地鶏のためあまり効果はあがらなかったようである。そこで各方面で鶏の改良と優良雛の配付の希望が起こった。
 上道郡農会の事業の一つに種禽設置事業があった。これにより優良種禽の繁殖を図るために,表4−2−6の2カ所に委託して,種卵および種雛の配付を行なった。

 これで見ると,浮田村(現岡山市)で名古屋コーチン種の繁殖を行なっている。飼育されていた種鶏の羽数は不明であるが,郡農会の援助で種雛,種卵の配布を行なっていたことは事実である。当時の養鶏は,農家の副業としては最も利益が多く,郡農会配付の種卵は希望者が多く,民間の種鶏家ばかりでなく,西大寺高等女学校にも種鶏を委託して種鶏を採取し,一般農家に配布していた。この結果,各地で20−30羽程度の副業養鶏が増加した。そのため鶏卵の集出荷などに問題が起こってきたので,大正の終わりごろから昭和の初期にかけて各地に養鶏組合が結成され,鶏卵の共同集出荷が行なわれるようになった。
 御津郡では,大正10年(1921)3月31日現在で,副業養鶏家1,858戸,7,298羽,専業家1戸,20羽であった。1戸当たりの平均飼育羽数は4羽で,飼育戸数は,郡内の全戸数に対し18パーセントであって,副業養鶏を盛んにする必要があるとしている。
 都窪郡では,養鶏を主とする任意組合が3組合あり,これらに所属する人員は,325人であった。これらが設立されたのは大正10年(1921)9月から大正12年(1923)10月にかけてである。飼育されていた鶏は3万5,088羽で,年間の産卵量は194万2,089個であった。
 浅口郡では,6,961戸に3万6,300羽の鶏が飼育され,大正11年(1922)には,産業組合法(明治33年3月公布)による浅口郡家禽販売組合が設立され,組合員は3,700人であった。
 川上郡では,家禽の飼育が農家の副業として有利なことは,周知のとおりであるのに,本郡では盛んでないのは残念であるとしている。大正初年における川上郡内の飼育戸数等は表4−2−7のとおりであった。

 阿哲郡では,鶏の飼育は盛んではなく,美穀村(現新見市),矢神村(現哲西町)等に優良種をみる程度で,ほとんどは雑種である。郡農会は各町村に1カ所の種鶏場を設けて,鶏の改良を図ろうとしているが,大家畜が中心であるため,飼料の供給が充分でないうえ,交通事情が悪いので,これらの点を改善すれば有望な副業となるのであろう。郡農会は,レグホーン,名古屋,ミノルカ,アンダルシャン,プリモースロック種等を奨励品種として,普及に努めている。大正11年(1922)と同15年(1926)の飼育戸数は表4−2−8のとおりであった。

 苫田郡では,芳野村,郷村(以上現鏡野町),西苫田村,津山京町(以上現津山市),上加茂村(現加茂町)の各養鶏組合が大正12〜13年(1923−24)に設立された。当時は4,858戸で2万261羽が飼われていた。大正14年(1925)度からは苫田郡農会が副業組合奨励金を交付し,組合活動の強化と養鶏奨励に努めた。
 勝田郡では,大崎村(現津山市)養鶏組合が大正12年(1923)10月に設立され,組合員は180名であった。しかし事業不振から数年にして数名の組合員を数えるのみとなった。また,吉野村(現勝央町)養鶏組合は大正14年(1925)に組合員250名で設立され,飼料の共同購入,鶏卵の共同販売,廃鶏の販売斡旋を行なっていた。
 久米郡では,三保村,打穴村,稲岡南村(以上現中央町),弓削町,神目村(以上現久米南町),瀧川村(現旭町),久米村(現久米町)の各養鶏組合が,生産物の共同販売,飼料その他の共同購入を行なっていた。大正5年(1916)には,3,558戸,雄3,723羽,雌7,866羽で,当時は1戸に雄1羽,雌2羽を飼っており,母鶏による孵化を行なっていたことが分かる。
 地域的には,以上述べたように,県南の各郡に多く飼われていたが,これを全県的に大正12年(1923)の統計等からみると,本県で生産された鶏卵は,阪神市場において備中卵としての銘柄を持ち,1,312トン程度の出荷を行なっていた。当時の県内における鶏卵生産量は1,875トン,生産額にして150万円(大正11年農商務省統計)であって,全国第15位で,古くから養鶏県としての地位を確保していたことがうかがわれる。
 また,廃鶏13万羽,初生雛25万羽の移出を行ない,支那卵2万箱(1箱正味重量4貫,15キログラム)初生雛5万羽,種卵2万個の移入が行なわれていた。当時の養鶏は,1キログラム当たり55銭,廃鶏は1羽当たり98銭程度であった。鶏糞は,10キログラム当たり16銭で売買され,貴重な有機質肥料として活用されていた。大正15年(1926)ごろの県下の生産量は,3万595トンであった。
 飼料の配合割合は,幼雛用として小米30パーセント,トウモロコシ30パーセント,フスマ20パーセント,大豆粕5パーセント。魚粉15パーセント,青菜,土,貝殻など適宜となっていた。当時の成鶏1羽当たりの年間産卵個数は,100個程度であった。 
 とくに,養鶏奨励の動機となったのは,大正13年(1924)の大旱害であった。当時,県では農村の救済制度として,副業資金を交付するなど,積極的に副業奨励を行なっていた。このころにいたり,明治41年(1908)から農事試験場で実施していた種鶏・種卵の払下げを本格的に行うべきだとの世論が高まったのと,払下希望が増加したため,大正12年(1923)に岡山県種畜場(岡山市京山,現在の池田動物園)で種鶏事業を開始することになり,建設費5,524円で鶏舎2棟,育雛舎1棟,孵卵室1棟を設置し,大正13年(1924)岡山県告示,第83号で岡山県種畜場種禽種卵払下規程が公布された。
 大正12年(1923)から4カ年にわたり愛知,千葉,香川,岡山,福岡の5県において,副業的な養鶏経営についての経営収支を農林省畜産試験場が調査した成績の概要は表4−2−9のとおりである。

 大正年代における岡山県下の鶏卵卸売価格は表4−2−10のとおりである。これからすると,岡山市の鶏卵が最も安く,続いて,玉島町(現倉敷市玉島),津山町(現津山市)の順となっている。これは飼育羽数の差が現れたものと考えられる。また,最初に述べている全国的な卵価の動向として,大正7年(1914)に卵価が高騰したとしているが,本県では,大正8,9年(1919−20)に,それも玉島町,津山町のみが高騰しているのが不思議である。

 大正末期における鶏卵の県外移出入動向を見ると表4−2−11のとおりであるが,大正2年(1923)に釜山,青島から鶏卵を輸入しているのが特徴的な動きであろう。また,阪神地区への移出入の動きもおもしろい。

 大正3年(1914),10年(1921)および15年(1926)における郡市別養鶏戸数等は表4−2−12から表4−2−14に示すとおりであった。

 前述の岡山県内務部(大正12年)の「岡山県産業調査書(現況の部)」によれば,当時の養鶏についておおむね次のような判定を下している。すなわち本県の養鶏は,5万7,831戸,26万2,965羽であるが主として副業経営であって,本業は僅かに61戸に過ぎず,1戸平均飼養羽数は4.6羽余りである。地域的分布状況を見れば,浅口,邑久,児島,小田,和気,上道の南部諸郡に盛んで,北部には比較的少ない。その理由は,南部は交通運輸が開けていて,消費地と密接につながり,鶏卵等の集散に商業的有利性を占めていることと,一方,耕作反別が広大であって,これから得られる農産副製造物が多く,かつ,これを利用する家畜の飼養が少ないので,養鶏に潤沢な飼料を供給することができることによる。南部の養鶏は,古くから阪神地方において備中玉(備前産のものもこの名称で移出される)と称して名声を持ち続けている。北部においては,地理的条件から,鶏卵の共販がうまく行かないで,おおむね自給自足の状況にあり,また,農産副製造物の多くは家畜用に利用せられ,産物の集散消費も南部のような調子に行かないことによるものである。」と。