既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第4章 養鶏の発達

第3節 鶏の改良

2.民間における種鶏改良

 明治年代の民間における種鶏改良は,いわゆる銘鶏時代であって,今日の産業養鶏的な見地からすれば,銘鶏は銘茶,銘木と同意義の感じがするが,当時のそれは,本質的にはカッコよい鶏をさした。現代の養鶏と異なり,経済能力よりも姿,形のよさを賞したものであるが,これも明治末期には一応の反省期をむかえたようである。明治中期以降には,養鶏団体も組織されるようになり,やや産業的な色彩がでてきたが,全国各地で鶏の品評会や共進会が開催され,種卵の交換,売買,さらには西洋的鶏種へのあこがれから珍品種の輸入の流行も続き,台頭しはじめた専業養鶏家も成長しないまま銘鶏の流行に埋もれた時代であった。こうした民間における養鶏の混乱期に当たっても,国としての対策は,前述のように明治39年(1906)に,農商務省月寒種牛渋谷分場が設立され,数種の実利種鶏の種卵を配布するまでは,ほとんどが手がつけられていなかったわけである。その背景には,畜産政策が軍馬優先に傾注したことによるといわれている。このような国の施設からの種卵の配布も,民間種禽業者が珍種,新種の鶏を輸入し,需要者の好奇心をそそる商策で,法外な巨利をむさぼる商略に対しては,やや力の弱い存在であった。
 ここで種鶏についての共進会に少しふれておこう。種鶏についての共進会は,いわゆる銘鶏時代の遺物であって,現在は問題とされないが,明治年代の終わりから家禽の出品された共進会が,大は全国段階のものから,小は郡段階のものまで,行なわれていた記録がある。すなわち,明治45年(1912)2月,暁声社主催第1回内国家禽共進会が東京上野公園で開催され,中央畜産会主催による第1回全国家禽共進会は,大正6年(1917)6月,5,139銘の参観者を集めた(京都府(昭和48年)の『京都府畜産のあゆみ』)とある。しかし,岡山県がこれらにどう対応したかの記録は見当たらない。中国連合畜産共進会において種鶏が出品されたのは,明治41年(1908)10月,現在の山口市において開催された第4回からであって,出品は途中中絶したときもあるが,昭和36年(1961)10月,神戸市で開催された第18回まで続けられていた。これらの詳細については,第1編総論の第3章に述べたところである。県段階の家禽共進会は,大正8年(1919)第1回岡山県畜牛家禽共進会が行なわれたのが初めてのようである。その後連綿として続けられている県共進会において,戦前の記録ははっきりしないが戦後第4回(昭和24年5月,岡山市)から第12回(昭和31年9月,井原市)まで種鶏の出品があった。これらについても前出の第1編第3章に述べたとおりである。郡段階になると記録が十分ではないが,明治39年(1906)10月,上道郡農会畜産品評会(開催地は当時の雄神村)に鶏24点の出品があり,45年(1912)4月,第4回旭東4郡連合畜産共進会(開催地は当時の邑久郡大宮村)に家禽70点の出品が見られる。明治,大正年代はともかくとして,昭和戦後期において,外貌審査を重んずる中国連合ないし県共進会への種鶏の出品があったことについては,おそらく畜産共進会は年1回開かれる畜産の祭典であるから,これに参加することにより,その存在価値を広く一般に認識させようということであって,決して共進会に参加することが種鶏の改良に貢献があると認めてのことではなかったと言ってもよかろう。
 農商務省は,大正14年(1925)に,農林省になったが,大正6年(1917)に副業奨励規則を制定し,養鶏組合の設置奨励あるいは孵卵機の購入,鶏品評会などへの助成等,若干の施策がとられたものの,本格的に鶏の改良に力を注いだのは,昭和2年(1927)を起点とした鶏卵増産10カ年計画からである。これにより,国立種鶏場が設立され,民間における種鶏改良も実利鶏作出に力が注がれることになった。
 岡山県内の種鶏改良も明治,大正年代全国的流れのなかで推移した。昭和にはいってからの種鶏改良は,国立種鶏場や県種鶏場からの種卵・種雛の払受けによる改良もあるが,民間種鶏場独自の看板的な系統が保持されていて,それに海外から輸入された特定な系統が交配されることによって改良が進められていった。
 昭和15年(1940)には県養鶏組合連合会が設立され,県内の鶏種統一,優良種鶏の確保と初生雛の配布に大きな役割りを果たした。民間種鶏場における鶏改良意欲向上に貢献したのは,県種畜場が昭和9年(1934)に始めた産卵能力検定事業であろう。

(1)産卵能力検定

 大正年代には,種鶏の選択とその改良を目的とした品評会,共進会が,全国的に盛んに開催された。産卵能力が外貌により左右されると信じられていた当時は,この品評会や共進会が,多産系統の作出の手段とされていた。一方ではこれまでの鶏の外貌を競う品評会や共進会に代って,産卵共進会が台頭し,千葉県佐倉町の堀田家農事試験場(旧佐倉城主の堀田正睦伯爵が旧城内に独力で開いた私設の試験場)は,大正2年(1913)わが国ではじめて産卵共進会を開いた。その後,大正9年(1920)4月には,政府関係のものとしては最初の全国畜産博覧会が東京で開催され,この中で産卵共進会が催され,産卵能力検定の幕開けとなった。
 昭和3年(1928)に,農林省播磨種鶏場(昭和21年兵庫種畜牧場と改称)が兵庫県揖保郡揖西村(現相生市)に開設されたが,同場では開設翌年の昭和4年(1929)から産卵能力検定検査を開始した。初年度は30羽をもって始め,兵庫県の原田耕造の出品した白色レグホン種が350日検定で312個,365日検定で319個を記録した。昭和3年(1928)に全国5カ所につくられた農林省の種鶏場では,それぞれ産卵能力検定を行い,地域の種鶏改良に取りくんでいったが,これとともに各県の養鶏関係施設でも産卵能力検定を実施するようになった。本県では昭和9年(1934)に初めてこれを実施し,昭和40年(1965)まで続いたが,昭和30年代になると,経済能力検定が併せて行われるようになった。  

  1 集合検定

 国,県あるいは団体の養鶏関係施設に,鶏の検定を依頼して行なう産卵能力検定は,昭和20年代半ばから集合検定の名称に変っていった。名称変更の理由は明確ではないが,当時国・県の施設から民間種鶏場へ払下げされた種雛の能力を把握するため行なわれた現場検定(民間種鶏場の現場で行う検定)との混同をさけるため,一定の検定場へ鶏を搬入して行う検定を集合検定というようになったものと思われる。前述のように,本県では昭和9年(1934)に,種畜場で行なった検定が最初で,これは,県内17名が出品した115羽をもって11月1日から開始された。出品者別の検定終了羽数と1羽平均産卵数は表4−3−9のとおりであった。

 産卵能力検定は,種鶏の改良に意欲を燃やす民間リーダーにとって,実利の追及と功名心を燃やすに十分なものがあったようで,非常に闘志を燃やすことになったのである。岡山種畜場は,昭和24年(1949)岡山市上伊福から御津郡牧石村(現岡山市三軒屋)に移転したが,昭和26年(1951)検定鶏出品していた有志が,検定鶏舎を県に寄贈したことや,検定鶏を出品るすブリーダーの相互の研究組織として検定鶏研究会をつくり,種畜場を会場として,種鶏改良についてお互いに情報交換を行なったことからも,その力の入れ方がいかに大きかったかがうかがえる。なお,この検定鶏研究会は,のちに養鶏試験場時代になって発展的に改組し,岡山県種鶏改良研究会に,さらに,昭和40年代にはいって岡山県養鶏研究会に名称を変更し活動範囲を広げて現在に至っている。
 検定を受ける鶏の資格条件としては,出品鶏の前2代の血統,能力の明らかなもので,品種としては白色レグホーン種,横斑プリマスロック種,白色ワイアンドット種,ロードアイランドレッド種,黒色オーピントン種および名古屋種の6種に限定されていた。しかし,その後削除あるいは追加された品種もあって,本県で実際に行なったのは,白色レグホーン種,横斑プリマスロック種,ロードアイランドレッド種およびニューハンプシャー種の4品種であった。検定期間の基準については,当初は統一的なものはなかったが,昭和14年(1939)農林省告示で定められ,毎年11月1日らか350日間,必要に応じて365日間に延長できることが決められた。
 本県で行った集合検定の検定羽数は,種畜場時代は毎年100羽前後であったが,養鶏試験場に移行してからは急増して,最高は昭和31年(1956)の400羽であった。しかし,昭和36年(1961)ごろから外国種の輸入が盛んになるにつれ,民間における種鶏改良熱も衰退していき,検定依頼羽数は極度に低下し,昭和40年(1965)に130羽を検定したのを最後に,集合検定は中断されている。
 検定成績の評価は,個体別の産卵個数と産卵重量および群単位での産卵個数と産卵重量により,これらが重要視された。これらの成績は,検定開始から年ごとに向上していったが,とくに,戦後飼料事情の好転するなかで,昭和29年(1954)検定では,本県としては初めて365日間の連産鶏2羽(笠岡市高田弘出品の白色レグホン,岡山市山上幹一出品の横斑プリマスロックの各1羽)の高記録鶏を出したことは特筆に値しよう。図4−3−2及び図4−3−3はその記録鶏である。以後表4−3−11のとおり,昭和37年(1962)まで毎年のように連産鶏が続出し,昭和29年(1954)からの9年間で合計38羽となった。

図4-3-2 笠岡市高田弘作出

 単冠白色レグホーン種

図4-3-3 岡山市山上幹一作出

横斑プリマスロック種

 検定鶏の飼養管理は,一般種鶏に比べて特別の扱いがなされた。直接飼育管理に当たる担当者は,早朝から日没まで没頭して飼育管理に専念した。とくに,飼料の調理給与には神経を使い,粉餌に青菜および水を加えて練り餌として1日に数回給与し,日没後は給与した飼料が腐敗するのを防ぐため残飼を取り除いた。飼料の配合は,自場で行うため,その単品材料も吟味して購入された。飼料配合割合を,昭和32年(1957)の例であげると,重量比でトウモロコシ30,小麦20,米糠12,ふすま10,酒屋糠3,大豆粕2,魚粉19,脱脂粉乳3,炭酸カルシウム3,食塩0.3,抗生物質,ビタミン剤0.05,蛹1,かきがら4となっている。これに,検定期間後半には,生どじょうを1日1羽4グラムずつ細切りして与え,さらに,にんにくも適宜飼料に混合して用いていた。

  2 経済能力検定

 鶏の産卵能力を改良するうえで,前項の集合検定事業の果たした役割りは大きかった。しかし,採卵養鶏経営の収益性には,鶏群の強健性,抗菌性がすぐれ,しかも,産卵数や卵重にバラツキが少なく,斉一性のよいことが要請されるようになった。経済能力検定には,このような時代の要請に対応するものとして,国,県,民間の鶏改良関係者の間で関心が高まっていった。とくに,養鶏先進国であるアメリカにおいて,すでに実施されていたランダム・サンプル・テスト(略称R・S・T)の成果が,わが国の養鶏関係誌にも紹介されるに及び,経済能力検定実施への機運は一層高まっていった。
 昭和32年(1957)には,宮城県種畜場が全国初めての試みとして「抜取見本経済検定」を実施した。その後,昭和36年(1961)からは,北海道,東北6県(青森,岩手,秋田,山形,宮城および福島)の種鶏家をもって組織した北日本種鶏改良協会(会長 岩谷龍一郎)のもとで,検定規定を作成して「北日本産卵能力経済検定」が始められた。
 本県における経済能力検定は,昭和36年(1961)に第1回を開始し,これにともなって関係規則である岡山県畜産関係試験場業務管理規則の改正を行なった。また,養鶏試験場では,これの実施細目として「経済能力検定実施要領」を作成した。その骨子は次のとおりである。@検定の依頼=養鶏振興法第7条第1項に基づく登録を受けたふ化業者の依頼により実施する。A検定の対象=登録ふ化場が販売する卵用鶏ひなであって,交配様式の明らかなものであり,かつ,ひな白痢検査等伝染病の予報を,定期的に実施している種鶏群の子孫であるもの。B検定の開始羽数=対象とするひな1件について40羽(昭和40年以降は50羽に改訂)をもって開始する。種卵のふ化は検定場で行ない,1,500個以上(昭和40年以降は2,200個以上に改訂)の同一等級のものの中から160個(昭和40年以降は220個に改訂)を,養鶏試験場職員がランダムに抜き取る。C検定期間=餌付けした日から518日間(昭和40年以降は500日間に改訂)とする。ただし場長が必要と認めた場合は期間を延長することができる。D検定鶏の飼養方法=育成期は立体管理,産卵期は平飼管理とする(昭和40年以降は全期間を通じてケージ管理に改訂)。点灯は9月から3月まで14時間とする。E検定結果の公表=必要により検定結果を公表する。以上の検定実施要領により,本県では昭和36〜38年(1961〜63),40〜41年(1965〜66)の合わせて5カ年間実施した。この検定で重要なことは,検定結果を公表するか否かであって,経済能力検定の目的から言っても,その成績を,広く養鶏関係者に知らせることが重要なことであった。しかし,実際に公表したのは,昭和40年〜41年(1965〜66)の2カ年分の成績だけであって,しかも経済収支成績の上位半分だけで,下位半分については,これを公表しなかった。