既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第4章 養鶏の発達

第3節 鶏の改良

3.孵卵事業の発達

(1)人工孵化のはじまり

 明治以前の養鶏は小規模であったから,孵卵には母鶏を用い,もっぱら自然孵化法によっていた。わが国における人工孵化の最初の試みは,明治9年(1978)に中国人2名を招いて行なった中国式(カマド式)の人工孵化試験だといわれている。その試験成績には,入卵個数1,824個に対して,孵化したのは411個であったこと,岡山県人の岡初平が孵卵法伝授のため参加したこと,などが記録されている。したがって,彼が人工孵化を最初に手がけた岡山県人ということになるが,中国式孵卵器は余り広くは普及しなかったようである。県内で最初に孵卵業を開業したのは山本又一(邑久郡長浜村字小津・現牛窓町)だったと考えられる。山本又一の子息佐一によれば,「明治36年(1903)ごろ,父又一が大阪の重枝養禽園から孵卵技術を習い,ひよこ屋を開業した」ということである。ちなみに,わが国最初の民営人工孵卵業は,明治30年(1897)4月に大阪で起こったとされている。岡山市以西では,浅口郡富田村(現倉敷市玉島)の藤沢某ほか2名により3カ所に孵卵器が入ったのが最初だといわれており,その年代は,わが国で最初の下駄箱式孵卵器が発明された明治39年(1906)ごろのようである。ただ,当時は,孵卵器と母鶏を用いた両方の孵化が行なわれていたようであるが,雛の人気と孵卵率とは,母鶏孵化の方がよかったようである。
 井原市高屋の土肥貞太郎は,明治末期から大正時代の孵卵業変遷の様子をうかがうことのできる次のような記録を所持している。これによれば,

 明治38年 孵化用母鶏約20羽を保有し,自然孵化を行なう。
 明治44年 母鶏孵化室の一部を改造して,200卵入平面孵卵器を新設,母鶏孵化との両立孵化を行なう。
 大正2年 平面孵卵器を450卵入りに改造。
 大正3年 今までの欠点を改良して,2台の孵卵器を製作し,母鶏孵化は中止した。
 大正4年 春,4台の孵卵器を増設,鶏の改良繁殖にも力を入れる。
 大正七年 2間半×七間の半地下孵卵室を造り,孵卵器は40台になる。孵卵成績は向上した。
 大正11年 雛の販売良好。孵卵器は52台になる。種卵は不足勝ちとなり,委託種鶏家をつくる。