>既刊の紹介>岡山県畜産史 |
昭和17年(1942)の企業整備令施行を機会に,当時30戸を数えていた孵卵場が10個所に縮小された。そのおもな理由は,電力使用量の節減と,孵卵従業員の徴兵による労働不足であった。戦況の悪化は,一部他県において孵卵羽数を皆無の状態にしたほど孵卵事業に大きな打撃を与えた。
本県では昭和20年(1945)の鑑別雌雛の羽数が約40万羽であった。
終戦後2,3年の間は,飼料事情は好転せず,雛の注文は不振であった。それに加えて深刻な電力不足により,到底孵卵を続けられないような状態であった。しかし,昭和23年(1948)には孵化用電力が農事用から分離され,350キロワット時という各種産業の中で最高に近い割当てを得た結果,翌24年(1949)には孵卵場数は33戸に回復し,初生雛の出荷羽数は64万6,000羽となり,翌25年(1950)には113万羽の初生雛が出荷されるまでになった。