既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第4章 養鶏の発達

第3節 鶏の改良

4.発生雛雌雄鑑別の変遷

(1)昭和前期までの雌雄鑑別

  1 雌雄鑑別のはじまり

 初生雛の雌雄鑑別法は,昭和2年(1927)ごろに実用化された。それ以前は,羽色によって雌雄分けのできる横斑プロマスロック種や一代雑種の一部は別として,雌雄分けされていない雛を数週間にわたって飼った後,冠や羽根の伸び具合,体格などによって雌雄を見出し,雌だけを大きくする方法がとられていた。肛門鑑別または指頭鑑別といわれる雛の雌雄鑑別技術を修得した最初の岡山県人は,倉敷市の栗本頼夫である。栗本は,昭和年代の初頭に愛知県の余語某のもとへ養鶏研究生として入り,そこで雛の雌雄鑑別ができることを知らされると,同じく愛知県内の小島学のもとへ移り,鑑別技術の修得に努めた。昭和5年(1930)4月,第1回鑑別検定試験に合格,直ちに帰国して職業鑑別師を開業した。開業当時の鑑別料金は,1羽につき3厘程度であった。ちなみに,昭和6年(1931)ごろ,無鑑別の雛は100羽が8円であった。
 ついで井原市の川合新一,笠岡市の三好茂らが鑑別師の資格をとった。三好は,昭和6年(1931)4月に,愛知県の柳某のもとへ行き,1期2週間の講習を2回受講して技術を修得した。検定試験では1等鑑別師の資格を得て,翌7年(1932)春に職業鑑別師を開業した。川合の開業は,三好よりわずかに早かった。この時代に鑑別師の資格を取るためには100円程度の講習料を要したということである。
 昭和7年(1932)ごろは,県内で孵化された雛の約半分程度しか雌雄鑑別されないで,残りの半分は無鑑別のまま販売されていた。無鑑別の雛が半数も出荷されていたのは,鑑別師がまだ少なかったことにもよるが,1部の孵卵場では,鑑別直後の雛が一時期に失神状態になるのを見て,鑑別は雛の健康に悪いと思い,これを敬遠したことによるらしい。鑑別料金は,1羽5厘で,その他に孵卵場が負担した経費は,旅費,日当は最低で乗車船賃の倍額,宿泊料は実費,陸路は1里につき50銭ということであった。1日の鑑別羽数は,1,000羽程度で,雌雛90パーセントの保証がつけられていた。実際の鑑別的中率は,当時すでに100パーセントに近い成績であったが,一部の孵化場では,鑑別後に雄雛を雌雛の中に混ぜる不心得者もいたといううわさも聞かれた。このような悪質なことをされても,雛を買った側では,たとえ90パーセントの雌雛であっても,雌雛をこれだけ選別したことへの驚きと喜びが大きかったので、クレームをつけるものはなかったということである。

  2 雌雄鑑別師の海外派遣

 初生雛の雌雄鑑別は,わが国で開発された誇るべき技術である。そして,川合新一と三好茂は海外でも活躍した。川合は,昭和9年(1934)アメリカから要請を受けて渡米し,さらに,昭和13年(1938)の暮には渡英し,そのままイギリスに帰化した。イギリスへは三好の方が先に渡っている。三好は昭和10年(1935)11月に出発し,翌年9月に帰国した。この間,イギリスに滞在したのは8カ月であったが鑑別羽数は45万羽に達した。なお,渡英費や滞在費を差引きして,約3,000円残ったということであったが,当時の新聞は,ポケットに1万円を入れて帰朝したと報道したものである。一流大学を出た者の初任給が月額60円の時代のことであった。

  3 雌雄鑑別師の斡旋

 昭和13年(1938)5月には,県農務課技師村上邦夫らの努力によって,それまで鑑別師は孵化場と相対で個人契約であったのを,県当局の示した次の6項目の斡旋内容による団体契約に改めた。このことは当時,全国的にも珍しいことで,関係各方面から好評を博した。

  @ 鑑別率は,98パーセントを保証すること。
  A 鑑別料金は,県養鶏連へ納入し,県養鶏連から鑑別師に渡すこと。
  B 鑑別料金は3厘で,諸経費は全額を孵卵場が負担すること。
  C 鑑別を受持つ孵卵場は,県養鶏連が決定すること。
  D 鑑別師1名の鑑別羽数は,年間25万羽程度であること。
  E 鑑別師田中よしのは常時岡山県へ出向すること。

 香川県の田中は,岡山県当局が鑑別師の不足を補うため,日本雌雄鑑別協会へ派遣を要請した者で,岡山県嘱託鑑別師として来岡し,以後も岡山県鑑別師界のために,長年にわたり尽力している。同年には香川県の須加原鑑別師も来岡し,活躍した。

  4 雌雄鑑別師の輩出

 三好茂に続いて鑑別師になったのは友田m志(浅口郡金光町),岡田滝夫(笠岡市),高田弘(笠岡市)である。友田m志は,昭和13年(1938)に開業して,浅口郡を中心に活躍した。岡田は,三好に師事して資格を得ているから,県内で養成された鑑別師第1号であった。さらに,岡田は,県下で最初の鑑別師を養成した。高田は,昭和14年(1939)の高等鑑別技術考査に合格したが,当時の養鶏誌には最高の技術を発揮したと記してある。昭和16年(1941)に栃木県から来岡した入江唯夫は,鑑別業務の斡旋や雛の出荷先の決定など事務的な仕事に手腕をふるったが,鑑別師としても大いに活躍した。
 昭和17年(1942)から戦争終結までの間に,県下初の女性鑑別師本地悟恵(倉敷市)と妹尾光男(小田郡矢掛町)が鑑別師に仲間入りした。しかし,この間には応召者があって,鑑別師は不足するようになったため,若林平八郎が日本雌雄鑑別協会から派遣されて来岡した。鑑別師の不足は,香川県でも同様であったので,田中は香川県の鑑別を応援するため,昭和19年(1944)に一時帰郷した。結局昭和19−20年(1944−45)には友田m志,本地悟恵,妹尾光男,入江唯夫,若林三郎の5名によって鑑別が行なわれたが,当時,中国地域で孵化される雛の60パーセントは,岡山県が生産したので,本県の鑑別師は多忙であった。

   5 雌雄鑑別羽数

 鑑別羽数の正確な数は記録されていないが,鑑別雌雛の出荷羽数から推定すると,昭和14年(1939)秋は,4万1,000羽,翌年春は110万羽,同年秋は4万7,000羽,昭和16年(1941)春は168万羽と見られていた。