既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第4章 養鶏の発達

第3節 鶏の改良

4.発生雛雌雄鑑別の変遷

(2)昭和戦後期における雌雄鑑別

  1 雌雄鑑別師界の組織づくり

 戦後の混乱期には,養鶏の衰退もはなはだしく,初生雛の生産は減少し,鑑別師の仕事も減った。その後飼料事情の好転したこともあって,昭和23年(1948)の雛生産は記録的な伸び率を示し,これにつれて,戦後の鑑別師も誕生するようになった。全国的な動向ではあったが,同年(1948)には本部を名古屋に置く社団法人日本初生雛鑑別協会が設立され,技術者の結集を図り,戦争による技術者の減少についての対策と技術低下の防止策に努めることになった。また,協会の発足とほぼ時を同じうして中国四国地域の支部が結成されたが,これは1年を出ずして中国支部になり,入江唯夫が初代支部長になった。中国支部の傘下には各県に鑑別クラブがあった。このクラブの結成に当たっては,昭和21年(1946)ごろ,友田m志と高田弘の奔走に負うところが大きかった。
 昭和33年(1958)には,わが国の鑑別師団体は3つあって,海外において,日本鑑別師が職場で競合し,契約料金を競り下げる傾向が現われ,将来が憂慮されるようになったので,団体競合することになり,日本雌雄鑑別協会(名古屋),国際雌雄鑑別協会(大阪市)および機械鑑別協会(東京)の3団体が合併して,同年12月,全日本初生雛鑑別協会を設立し,本部を東京に置いた。この会は,翌34年(1955)4月,社団法人の認可を受けて,現在に至っている。

  2 雌雄鑑別料金

 鑑別さきの斡旋,鑑別羽数の割当て,鑑別料金の調整などは,中国支部の結成後は中国支部が行なうようになったが,昭和19年(1944)から同22年(1947)までは,県農業会がこれを行なっていた。鑑別料金の推移は,関係者からのきき取りによれば表4−3−19のとおりである。

  3 岡山県の雌雄鑑別師

 第二次世界大戦の終戦前後活躍した鑑別師の多くは,すでに引退しているが,現在もなお,後進の指導や鑑別の実務に活躍している鑑別師は,表4−3−20のとおり26名となっている。このうち,楠原克己(岡山市)は,一時チックテスターを用いて機械鑑別を行ったことがあったが,その後肛門鑑別に替わり,現在では全員が肛門鑑別を行なっている。

  4 雌雄鑑別競技

 鑑別競技は,確実性(鑑別率)と速度を競うものであって,鑑別技術の進歩に大きく貢献した。本県鑑別師の最初の記録として残っているのは,昭和23年(1948)の全国競技会において6位になった友田m志の成績である。この時の成績は,100羽を7分45秒で鑑別し,鑑別率は100パーセントであった。昭和24年(1949)の全国競技会では田中よしのが新記録を樹立して優勝した。また,同年の競技会は,社団法人全日本初生雛鑑別協会の主催した第1回の記念すべき大会であって,競技会の名称も全日本初生雛鑑別選手権大会であった。この大会は,その後毎年1回行なわれており,昭和52年(1977)11月には岡山市において開催された。この大会における現在までの本県関係の上位入賞者は,表4−3−21のとおりである。

  5 雌雄鑑別羽数

 昭和33年(1958)以後,県下で鑑別された雛の羽数は,表4−3−22のとおりである。昭和38年(1963)までの増加が大きく,この年には約1,813万羽に達している。しかし,昭和40年(1965)になると大幅に減少し,その後はほぼ横ばいの状態で推移している。ただし,昭和48−50年(1973−75)の間は,一部羽毛鑑別によるものが含まれている。羽毛鑑別は,手羽先の羽毛の伸び具合や,羽毛の太さによって雌雄分けする方法であって,少しの経験をつめば100パーセント近い鑑別率を上げることができた。