既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第5章 その他の家畜家禽

第1節 馬

1 概説

(2) 岡山県における馬産の概要

 古くは「桓武紀」に「長島之牧」の名が挙げられている。これが後に「延喜式」(927)にいう備前国小豆島から遷された「長島馬牛牧」となっている。「幕末のころ岡山藩老臣伊木氏がここへ馬を放牧せり。この地の産馬は東国産に似て,駿足しかも砲煙場裡を少しも嘶かざる」と,小林久磨雄(大正2年)の『邑久郡誌(第3編)』にある。この牧場は,明治4年(1871)廃藩とともに全廃された。
 享保11年(1726)「従公儀御尋有之由ニ付書上」による藩政の由来について,石田寛(1961)の『岡山藩における牛馬市ならびに牛馬に関する考察』に,梔島,六口島,鴻島牧のことが詳述されている。これによれば延宝年中(1673−80)開牧された梔島は,備前岡山藩の馬牧中,最もよく名馬を残したということである。梔島,鴻島の牧場は,寛永3年(1626)に開かれ,文政6年(1823)に廃場となっている(岡山県内務部(大正元年)の『岡山県の畜産』)。これには,また,次のように述べられている。馬匹の生産育成も本県では好適な事業であるが,地勢等は概して畜牛の生産に適しているとの認識から,種々の奨励施設は,先ず畜牛に重点を置き,馬匹の改良には手を着けていなかったが,時勢の要求により,最近着々と改良発達の奨励施策に努めるようになった。
 今,本県馬産の沿革について見れば,往古の事蹟については資料も少なく,口碑の伝えるものもまれで,詳細を知る手がかりもないが,昔道路が狭く,険悪で,交通不便な時代には,荷物の運搬はただ人馬の背による他なく,従って馬匹の飼養頭数が多かったことはいうまでもなかろう。とくに,備中北部,美作西部では砂鉄を輸送するため多数の牝馬を飼養していた。この地方には山野に牧草が多く,気候風土も産馬に適していたので,とくに繁殖に努めたわけでもないが,おのずから生産頭数が多くなり,今でも備中阿哲郡上刑部村(現大佐町)大井野を中心とする同郡北部および真庭郡に馬の飼養が多く,体格もほぼ均正を保ち,筋骨強健,蹄質堅く,性質温順,粗食に耐え,気候の感作に余り侵されることなく,管理が容易で,しかも持久力に富み,役用として優れた馬を生産している。また,松平旧津山藩主は,馬の改良に意を用い,当時江戸御馬所から年々牡馬数頭を購入して,これを土産馬に交配し,かつ,牝馬を民間に委託し,子馬を生産した者には飼養料として肢1本か2本を分与するなどの方法で,大いに馬産を奨励したので,民間においても進んで出雲地方から良馬を購入し,改良繁殖に努めるという美風を生ずるようになった。最近苫田郡上斎原村,香々美村(現鏡野町),加茂村(現加茂町)などに幾分優良な和種馬を見るのは,以上の業績によるものである。
 池田旧岡山藩主は,享保年間(1716−35)備中下道郡久代村(現総社市)天王市において馬匹買い出しに功労のあった一人の馬喰に対し,毎年3人扶持を与え,津高郡一宮村(現岡山市)の一の宮市においては宝暦年間(1751−63)博労の宿泊料半額を補助し,また,馬医に扶持した等の事績があった。このように古くから馬匹の奨励に努めていた。
 明治13年(1880)児島郡下村(現倉敷市児島)渾大坊益三郎という者が,内務省から南部産馬牝牡4頭を借り受け,これを勝田郡広戸村および馬桑村(現勝北町)に開設した牧場において改良繁殖に供した。広戸村(現勝北町)附近一帯の平坦部は日本原で,牧場に好適の地であるから,時の郡長安達清風は,大いに渾大坊の事業を援助した。しかし,残念なことに,この事業は成功を見るに至らなかった(岡山県務部(昭和6年)の『岡山県畜産要覧』)。岡山県(昭和13年)の『岡山県郡治史』によれば,明治12年(1879)勝北郡長安達清風が有志を募集して新野東村(現勝北町)日本原開墾を申請し,4町歩を開き,桑,楮などを試植したところ,期待どおり土地に適し,成育良好,士族授産の要地であるので,ますます拡張しようとして,内務省に申請して13年(1880)9月,勧農局製造の馬耕器を借り,広野を開墾した。14年(1881)1月,この開墾に従事した新谷英太郎ほか52名は,農商務省から金1万円を借り入れ,士族移住を計画した。15年(1882)4月,新野村(現勝北町)東日本原開拓人新谷英太郎ほか52名から再び資本金拝借の儀請願があり,農商務省から金15,000円を借り入れて,これを貸与した。明治16年(1883)原敬が日本原を視察し,10月25日には真島郡見尾村(現勝山町)の大杉牧場を視察している。(注−カッコ内は筆者の加筆したもの)
 明治15年(1882)真島郡小童谷村(現湯原町)池田稲夫は,内国牡馬を借り受け,同村カマト原牧場に放養した。明治30年(1897)種牡馬検査法(法律第12号,3月公布,4月1日施行)が公布され,全国画一的な標準をもって種牡馬検査を行ない,また,時々種牡馬の監督検査および産駒の成績調査を行なうようになった。同35年(1902)に至り,種馬所規則が発布せられた。39年(1906)には農商務省からオーストラリア産牝馬の貸下げがあった。これを動機として同省に請願して島根種馬所の管轄区域に編入してもらい,種付所を設けて民有の牝馬に種付けをするようになった。同時に種牝馬奨励金下附規程を設けて種付けを奨励した。このように馬の改良に努めた結果,数年にして多数の良馬を産するようになった,ということであった。
 なお,岡山県内務部(昭和9年)の『畜産要覧』は,その後の馬産について次のように述べている。
 「さらに産馬奨励規程を設けて奨励範囲を拡大し,また,政府においては種牡馬の借用方針を定めて改良の目標を厳定した。このように種々助長政策を採った結果,馬格は大いに改良せられ,体格強健,粗食に耐え,軍事上にも農耕上にも実用的のものを生産するようになった。
 大正15年(1926)天与の馬産地である真庭郡蒜山麓の大原野,川上,八束両村を中心とした新しい産馬地に種付所が設置された。このほか,14年(1925)には上房郡呰部町(現北房町)に,昭和2年(1927)には勝田郡勝加茂村(現勝北町)に種付所が設置された。馬匹協会の牧場奨励等馬事改良の気運が盛んになって,ますます進展の傾向となった。昭和8年(1933)には,苫田郡上斎原村に種付所が,また同郡高野村,東一宮村(いずれも現津山市)に出張種付所が設けられた。
 県競馬協会と県馬匹協会の助成,県畜産組合連合会の競馬開催等により,その余剰金を馬事施設費に充当して,馬産の改良増殖に大いに努め,一方,県もまた本省からの助成を得て,時局匡救幼駒育成設備を,昭和7年(1932)度17ヵ所,8年(1933)度13ヵ所新設し,本県産馬もいよいよ進展を見ている。」とある。
 昭和23年(1948)3月の定例県議会において法定外独立税として牛馬税が可決され,4月30日施行されている。税収は,同年819万円,24年(1949)8,336,000円であったが,25年(1950)度の徴税を留保した上,同年11月30日の定例県議会で否決され,廃止された。(家畜税としては,その後昭和30年(1955)1頭500円の犬税が課されている。)