既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第5章 その他の家畜家禽

第1節 馬

4 馬の利用

(1) 役利用

   1 農用馬

 農馬利用は,馬政第二次計画(昭和11年4月1日)により,いよいよ具体化している。この計画によるわが国の保有馬数は150万頭の大部分は役馬によるが,この中,都市輓馬は約15万頭が限度と見られ,大部分は農馬によるものであった。このため使役技術の向上のため各種講習会,伝習会,実演会等が開催された。大正11年(1922)岡山県農事試験場(当時吉備郡高松町所在,現農業試験場)技師塩見邦治が水田中耕除草機を考案している。初めは動物に稲株をまたがせて歩かせたが,稲の損傷が多いので,農林省は馬道と呼ぶ広い馬の通路のある田植え方法を考え出し,これを普及するため,昭和12年(1937)から5ヵ年間,岡山県農事試験場など8ヵ所に委託試験を行ない,この技術の地域性および稲の品質収量に及ぼす影響などを試験した。水田中耕除草機は,初め牛で行ない,高松町立田(現岡山市高松)の篤農家渡辺義雄が実演した。これが後に馬によるようになった。なお,渡辺義雄所有の除草機は,現在岡山県立青少年農林文化センター三徳園に保存されている。
 昭和3,4年(1927−28)ごろの農村不況に当たり,自力更生による増産運動が起こった。自家労働力の生産化ということで,畜力利用と堆肥増産利用の問題が再び新しい政策の対象となり,有畜農業の中で取りあげられるようになった。このような中で,畜力原動機による定置作業の最も普及したのは岡山県であって,作業は籾摺りが主であった。
 第二次世界大戦に入ると,従来の過剰労力をいかに生産に役立てるかということから,不足する労力の中でいかにして生産の減退を防ぐかという方向に変った。労力節約のため畜力利用が奨励され,農林省は畜力動員規則を定め,在村牛馬を班編成して,応召農家や徴用農家の農作業に繰り出す制度を設けたので,畜力利用は戦時中の不足労力対策として重要な役割りを果すようになった。それまでは,馬の畜力利用は,農耕と運搬にほとんど限られていたが,これに定置作業として,米搗き,縄ない,藁打ち,籾すり,稲こぎ,水田除草が加えられた。
 戦後数年間は,食糧増産に対する国の緊急要請により,引き続き飼養されていた馬も,食糧増産の緊急性が次第に後退した昭和32−33年(1957−58)ごろから,一方において動力耕運機の普及があって,馬利用は急速に後退した。また,その後の大型トラクターの出現により,牧野改良事業,土層改良事業など機械化の波は,一般農家から農用馬を駆逐した。

   2 交通運搬用馬

 昔は道路が狭く険悪であったので,荷物の運搬は駄馬に負うところが大きく,中国山地における砂鉄の輸送は多く牝馬に依存した。したがって馬飼養頭数の比率は比較的大であった。
 真庭郡教育会(昭和2年)の『真庭郡誌』によれば,「由来本郡は交通不便にして,荷物の運搬は必牛馬の背を借らざるべからず。依之自然運搬用として多数の駄馬を飼養せるものなるも,世の進運に伴い,道路の開通は年とともに盛にして,今や車輌を見ざる所なきに至り,飼養馬匹も漸次減少の趨勢を示しつつあり。(後略)」とある。苫田郡教育会(昭和2年)の『苫田郡誌』によれば,「近時道路の開通と共に馬をして従来の駄用のみに甘ぜざるに至り,荷馬車用として使用するもの多きに至れり(後略)」とあり,国政寛(昭和33年)の『勝田郡誌』によれば,「明治年代まで交通不便の時代,作州地方には多数の牡牛が飼養せられた。そのころ物資の運搬は,四つ馬車を使用し,その前は大八車,さらに昔は駄馬,駄牛の背によってのみ物資を運んだ。」とあって,物資運搬のための馬利用の変遷をうかがわせて興味深い。
 さて,交通運輸に用いられた馬について,史実を列挙すれば次のとおりであった。
 明治6年(1873)県令と元岡山藩主池田家が,初めて自家用の乗用馬車を使用した。これは,明治30年(1897)ごろまで用いられた。明治12年(1879)11月30日,小幡金平の発起により,岡山に馬車会社「行運社」が設立された。資本金は,一株15円,50株750円であった。2頭立て馬車6輌で,明治13年(1880)1月25日から岡山,玉島間に第1号路線を開いた。経路は,岡山,庭瀬口,撫川,倉敷,玉島で,旅客,貨物の運送を取り扱った。しかし,人力車夫の妨害があり,満員にならないと発車しない,などの理由から,人気がなく,合計81日の運行で廃業した。人力車に押されて定着しなかったのである。
 明治16年(1883)5月,岡山区杉山岩三郎,蜂谷勝太郎の二人は,御野郡大安寺村(現岡山市)の村岡某を教師として,岡山区内山下に馬術研究所を設けた。
 明治17年(1884)11月14日調べの岡山区の車輌数は1,827台で,その内訳は,一人乗り人力車541台,二人乗り人力車214台,大荷車54台,中荷車994台,免税車21台,馬車3台であった。
 明治30年(1897)ごろから岡山市内に荷馬車が増え,専業者が出て来た。明治38年(1905)の統計によれば,牛車はなく,荷馬車31台となっている。大正2年(1913)62台,6年(1917)83台,10年(1921)222台,14年(1925)272台,昭和元年(1926)269台,11年(1936)132台という推移を示している。
 明治34年(1901)5月18日,後月郡井原町(現井原市)と小田郡笠岡町(現笠岡市)との間に,乗合馬車が開業した。6人乗り2輌の馬車が1日4往復した。料金は20銭であった。
 昭和初年における馬車牛車等の数は表5−1−26および表5−1−27のようであった。
 昭和50年(1975)10月19日,岡山市西川原の後藤卓美は,荷馬車を廃業した。これで岡山市から荷馬車の姿は完全に消えた。

   3 乗馬クラブ

 岡山馬事公苑株式会社は,昭和43年(1968)10月,上道郡寺山字東城下(現岡山市)に1,500坪の敷地を求め,岡山国際乗馬クラブ(代表亀山甚作)を開設した。初め14頭から現在21頭の乗馬を繋養し,中四国地方最大の規模で,会員65名(1日平均利用者12,3名),ほかに年間300人程度のビジターがある。この他,和気乗馬クラブ(昭和43年,和気町に設立,繋養馬4頭),備北カントリー・ライディング・クラブ驍勇会(阿哲郡神郷町,繋養馬4頭)があって,全国乗馬クラブ連合会(東京都世田谷区上用賀2−1−1)の会員となっている。
 供用する馬は,主として競走馬のうち故障を生じて廃用されたものがあてられている。