既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第5章 その他の家畜家禽

第1節 馬

7 競馬

(1) 沿革

 戦前の競馬は,馬政上の必要から,馬の能力を検定し,種馬を選定するために行なわれたもので,馬匹改良上わが国馬政計画の一環として行なわれたものである。
 馬匹改良上,勝馬投票を伴う競馬の必要性が認められて,明治39年(1906)12月,競馬開催を目的とする社団法人の設立および監督についての閣令が公布され,馬券競馬が初められた。しかし,競馬により種々社会問題も引き起こされ,その弊害が問題となったとき,新刑法が発令され,これによって馬券の発売は支障があるということになり,明治41年(1908)1月,その発売は禁ぜられた(馬券黙許時代)。ところが,馬券の発売は禁ぜられたが,馬匹改良上競馬の必要性は変らなかったので,明治43年(1910)から大正12年(1923)までの13年間,政府は国庫補助金を支出して競馬を続行させた(政府助成時代)。馬券の発売禁止とともに,明治41年(1908)11月,閣令第1号をもって「競馬規程」が公布され,馬場の設備,競争馬匹,競争距離,賞金等について詳細な規程が設けられるようになった。
 岡山県では,右の規程に準拠して,大正2年(1913)に「競馬取締規則」(県令第60号)を次のように発布した。これを見れば,当時の競馬の実情が彷彿とするので,その全文を掲載する。

     競馬取締規則    大正二年一〇月二二日,県令第六〇号

   競馬取締規則左ノ通之ヲ定ム
   本令ハ発布ノ日ヨリ施行ス
   第一条 明治四十一年閣令第一号競馬規程第一条但書ニ該当スル競馬ヲ開催セントスル者ハ左記各号ノ事項ヲ具シ開催地所轄警察官署ノ認可ヲ受クヘシ
     一.開催ノ事由
     二.開催ノ月日時及場所
     三.競馬場ノ周囲三十間以内ニ於ケル土地ノ状況ヲ詳記シタル見取図
     四.競馬ニ要スル土地所有者ノ承諾書官有地ナルトキハ使用許可書
      前項第二号ノ事項ヲ変更セントスルトキハ開催地所轄ノ警察官署又ハ巡査派出所若ハ巡査駐在所ニ届出ツヘシ
   第二条 競馬場ノ構造方法ハ左記各号ノ制限ニ従フヘシ
     一.馬場ハ幅員三間以上タルヘキコト
     二.馬場ニハ高サ五尺以上ニシテ内外二重ノ埒ヲ設クヘシ
      所轄警察署ハ土地ノ状況ニヨリ危険ノ虞ナシト認ムルトキハ前項各号ノ事項ヲ省略シ特ニ許可スルコトアルヘシ
   第三条 競馬場ハ所轄警察署ノ検査ヲ受クルニアラサレハ使用スルコトヲ得ス
   第四条 頬冠ヲ為シ又ハ下駄ヲ穿チ若ハ銘酊シテ乗馬スルコトヲ得ス
   第五条 観覧者ハ左記各号ノ一ニ該当スル行為ヲ為スコトヲ得ス
     一.馬匹又ハ騎手ニ対シ妨害ヲ為スコト
     二.馬匹ニ鞭韃ヲ加フルコト
     三.埒内ニ立入リ他人ノ棧敷ニ登リ又ハ棧敷下ニ立入ルコト
   第六条 所轄警察署ハ危害予防上必要ト認ムルトキハ競馬ノ停止ヲ命スルコトアルヘシ
   第七条 (略)

 公営競馬は,明治43年(1910)前述の競馬規程の改正により,法的根拠をもって産牛馬組合が開催することになり,大正4年(1915)以後は畜産組合がこれを継承して実施することになった。しかし,馬券の発売は許されていなかった。
 昭和2年(1927)8月,農林,内務省令をもって「地方競馬規則」が制定されると,畜産組合および同連合会によって馬券に替わる優勝馬投票券付入場券の発売によって競馬が行なわれた。
 昭和14年(1939)に軍馬資源保護法が制定されると,競馬は軍用保護馬の鍛錬のため,優勝馬投票券を発売できる鍛錬馬競争に改変された。「内地馬政計画実施要領」(昭和13年9月10日,馬第1376号)による馬政局長官から各地方長官あて通牒の文中に「鍛錬競技ノ実施ニ伴ヒ地方競馬規則ニ依ル競馬ハ之ヲ廃止ス」となった。
 第二次世界大戦の激化に伴い,昭和18年(1943)12月17日,閣議決定により競馬の開催は停止された。そして,終戦の年,すなわち,昭和20年(1945)11月20日,根拠法令を失った。
 戦後の無秩序混乱の時期,一部の地方においては地方馬を集めて馬券類似の馬票を発売して,娯楽と収益を兼ねて競馬行為をしたり,進駐軍兵士の慰安娯楽のため競馬を行なったりした。岡山県においては,昭和21年(1946)4月25日に,それまで駐留していた米軍に代って岡山,倉敷両市に進駐した英印軍の要求により,原尾島競馬場において「英印軍の競馬」が数回開催されている。その時の模様について,岡山県(昭和44年)の『岡山県政史(昭和戦後編)』は次のように述べている。すなわち,馬は一般農家の所有のものを集め,英印軍将兵が試乗して級別を決め,番組みを編成した。騎手はすべて英印軍の将兵で,中には婦人レースもあった。馬券は,日本人も買えたが,払いもどしは英印軍将兵の監督下にあって,いい加減なものだったらしい。馬の所有者には手当ての代りに衣料品,食料品などの現物が支給されることが多く,物資不足の時代であったので,出場希望者は割合多かったという。当時は他に娯楽もなかったので,競馬当日は,多くの日本人も集まり,盛会だったということである。昭和22年(1947)8月,英印軍の撤退により,この競馬も廃止された。
 さて,無秩序乱脈な競馬の弊害を除くため,戦後議員立法の第1号として,昭和21年(1946)11月20日,地方競馬法(法律第57号)が制定公布され,ようやく無法状態から脱した。その後,23年(1948)7月13日,競馬法(法律第157号)の制定により,地方競馬の規定もこの中に包含され,施行主体が都道府県および災害市町村に限定されることになった。公営競馬という名称は,国営競馬に対するものであり,昭和29年(1954)7月,国営競馬が民営に移され,日本中央競馬会による中央競馬に移行してからは,地方競馬と称されるようになった。
 なお,ここで現在の地方競馬全国協会の設立と,その畜産振興助成制度について付記すれば次のとおりである。この協会は,地方競馬の施行体制を整備するとともに,競馬の実施方法を改善し,これに対する規制を強化して,競馬を公正かつ円滑に実施し,併せて競馬収益をもって畜産振興,社会福祉の増進等の財源に充当して,これら事業の発展に寄与する等の諸策を推進する機関として,昭和37年(1962)4月,法律第83号をもって改正された競馬法に基づく団体として,同年8月1日に設立されたのである。この協会の行なう畜産振興助成事業は,国の補助対象とならない事業について,次の各号の1に該当するものについて行なわれている。

   (1) 馬の登録事業または種馬の整備事業,その他馬の改良増殖に資する事業。
   (2) 畜産経営もしくは技術指導事業,または経営もしくは流通の合理化のための事業その他畜産振興に資するための事業であって,主として地域的に行なわれるもの。