既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第5章 その他の家畜家禽

第1節 馬

7 競馬

(2) 岡山県における競馬の開催

   1 明治,大正年代の競馬

 明治26年(1892)2月18日の山陽新報に,「岡山市内山下の第3高等学校医学部裏手を借り受け,競馬場を設立。本年4月から開場式を兼ね競馬を催すはずなり」と報ぜられた。
 大正2年(1913)10月,前述のように競馬取締規則(県令第60号)の発布のあった直後の11月1日,1府7県連合中国競馬大会が奧市新公園で開催された。ところが賞金不渡りの不手際があり,主催者田中常次郎に対し,1万余の群集が大紛争を起こした(山陽新聞社史編集委員会(昭和44年)『山陽新聞90年史』)ということである。
 大正4年(1915)10月9日の山陽新報は,第7回中国連合畜産共進会が岡山市津島の練兵場において10月11日から21日まで11日間開催された際の余興として,練兵場で10月8,9両日,競馬大会が催されたときの模様を「畜産共進会余興の競馬大会」という見出しで次のように掲げている。すなわち,「大雨頓にあがりて天下無双の日本晴,昨8日は朝早くより共進会場へ押し掛けたる群衆正に62,000有余名と註せられしが,午前11時,大競馬の幕は切って落され,番数の進むに随ひて見物の人垣柵の周囲を取り繞らして十重二十重,棧敷も平地もぎっしり一杯,競走に油の乗ること極りなし。但旭川出水のため河止となり,馬にも人にも旭東口の出揃はざりしは遺憾の至りなるも,何れ9日午前10時よりの優勝競馬までには馳けつけ得るなるべく,それだけ今日の楽しみを1日延ばしたりと諦め置くの他はなし(後略)」ということであった。
 西大寺町史編集委員会(昭和46年)の『西大寺町史』によれば,大正14年(1925)に,岡山県愛馬会が結成され,翌年10月,向洲において開催された県畜産共進会の余興として,簡単なる馬場を設けて競馬を行なった。4,5頭の馬を走らせ,1着馬に賞金100円を出し,予算は1,000円であった。これが意外に人気を集めたので,時の町長岡崎勉を動かして正式に競馬場を設けようということになった。
 当時,全国に11ヵ所の公認競馬場が設けられていて,これに準ずる地方競馬も,各県が争って認可申請していたが,岡山県には何らの施設もなかった。
 たまたま,御津郡出身で,阪神鳴尾競馬場の職員であった今井千尋が,専門的な観点から西大寺向洲が競馬場に好適であると,町や町議会へ進言して,当局を動かした。
 昭和2年(1927),県愛馬会を発展的に解消し,県愛馬クラブ(会長今井千尋)に組織がえし,町と協力して,競馬場設置計画をたて,県畜連の了解を得,県内務部長(県畜連会長を兼ねていた)を通じて,農林省へ認可の手続きをとり,西大寺競馬場が設立された。
 馬場は1周800メートル,諸設備費すべて町の負担で,総工費は8,000円であった。

   2 昭和前期の競馬

 第1回の西大寺競馬は,昭和2年(1927)11月3日から4日間,県畜連主催で,西大寺町と県愛馬クラブ協讃により挙行された。
 レースは,駈歩と騎乗速歩の2つで,駈走の距離は1,200メートルから200メートル上りに2,200メートルまでの6種類,速歩の方は1,600メートルから2,600メートルまでの6種類であった。右回りのレースで,1日12レース,いずれも単勝で,複勝はなかった。投票券附入場券には1,2および3等があって,1等は投票券10枚で10円,2等は5枚で5円,3等は2枚で2円であった。見物だけのものは50銭の入場券で,学生・生徒は半額であった。
 配当金は,1票10円以下のものは,10円を限度として商品券が出された。もし商品がいらないときは,商店で手数料を引き去って,現金を受け取ることができた。
 競馬は,その後毎年春秋2回開かれ,毎日売上げは4万円にも及び,円滑に運営され,昭和6年(1931)まで続いた。しかし,向洲は1周が800メートルしかなかったこと,諸施設が常設でなく,開催の都度造る実情であった。昭和7年(1932),競馬法が改正され,@馬場が1周1,000メートルを必要とすること,A施設が常設であること,B産馬の改良,馬事思想の普及などには大都市を背景とすることを必要とすること,などの理由により,岡山市原尾島へ移転することになった。
 昭和4年(1929)には,倉敷競馬場が開設され,同年4月と11月の2回競馬が挙行された。
 昭和8年(1933)になると,西大寺,倉敷両競馬場は廃止され,岡山市原尾島に岡山県愛馬倶楽部(会長横山泰造)によって岡山競馬場が新設された。この年の競馬開催は,倉敷で4月と10月の2回,岡山で5月と9月の2回であった。翌9年(1934)1月5日から8日まで岡山競馬が開催されているが,詳しいことはわからない。
 この間の競馬開催記録は,岡山県内務部(昭和9年)の『畜産要覧』に掲げられているので,表5−1−39に転載する。
 戦前の競馬記録は,ここまで終っている。このあと,昭和14年(1939)鍛錬馬競走へ移行するまでの間,競馬がどうなっていたかについてはっきりしない。

   3 昭和戦後期の競馬

 昭和21年(1946)11月,地方競馬法(法律第57号)が制定され,同23年(1948)7月13日,競馬法(法律第158号)が公布された。これにより,競馬は,岡山県馬匹組合の手から県営に移管された。これに先だって,同年5月29日開会の定例県議会において,地方競馬を県営とすることを要望する決議が行なわれている。岡山県議会(昭和49年)の『岡山県会史(第7編)』によれば,昭和23年(1948)7月13日,競馬法が改正され,これにより岡山県馬匹組合の解散とともに,岡山市原尾島の競馬場を県に移管して,県営競馬場とした。土地は県のものではなかったので,県は土地所有者との間に賃貸契約を締結し,昭和24年(1949)12月,契約満了後は,契約の更新をしないまま,話し合いによって競馬を開催していたという。
 戦後初めての県営競馬は,昭和23年(1948)9月に開催されている。翌24年(1949)には,岡山市が戦災復興都市の指定を受け,競馬開催の認可をうけて,同年5月に第1回の競馬を開催した。以来,県および岡山市が,それぞれ年2−4回の競馬を開催している。市の競馬開催回数は,初め年2回であったが,昭和25年(1950)競馬法の改正により,翌26年(1951)からは,県と同じく年4回となった。ここでの馬券売上高の最高は,市営競馬で4,200万円,県営競馬で3,900万円であったということであるが,いつのものかについては,つまびらかにできない。
 原尾島競馬場は,低湿地であって,昭和9年(1934)と20年(1945)の2回の水害により,施設は老朽化していた。たまたま,昭和25年(1950)4月,市営競馬開催中,スタンドの西端が落ちるという出来事もあったりして,前年ごろからくすぶり出していた移転問題が具体化し,市内数ヵ所に候補地を物色した。この中には,岡山市津島旧練兵場跡,のちに県養鶏試験場となった市内田中地先の笹ケ瀬川廃川敷も含まれていた。結局,岡山市江並,旭川西岸の三興不動の所有地7万坪に適地を求め,同26年(1951)から移転を計画し,同28年(1953)9月29日,移転工事を終り,三幡競馬場として落成式が挙行された。
 移転後第1回の県営競馬は,同年10月3−5日および10−12日の6日間行なわれ,出場馬数300頭,馬券売上総額2,5765,000円であった。さらに,この年第2回を12月12−20日,第3回を同月23−29日に開催している。一方,同年5月には原尾島で最後の競馬が行なわれた。この競馬で195,950円という全国最高の大穴が出ている。
 その後毎年,県および岡山市で,年数回ずつ開催していたが,一般の競馬に対する熱意が低下したため,昭和33年(1958)7月29日,ついに廃止された。