既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第5章 その他の家畜家禽

第2節 緬羊

1 わが国の緬羊飼養の推移

 明治2年(1869)細川少議官がアメリカからメリノ種8頭を輸入したのが,わが国における緬羊輸入の初めである。明治維新後,欧米文化の輸入はめざましいものがあり,これに伴って国民の生活様式にも画期的な変化が生じた。そのうちとくに著しかったものの1つに羊毛製品の需要増加があった。これに対して,当時国内にはほとんど緬羊がおらず,毛製品はすべて海外からの輸入に依存していたので,国の経済上牧羊事業の必要性が認識され,前記のように明治2年(1869)以降緬羊が輸入されるようになった。明治8年(1875)には,わが国最初の緬羊牧羊場が下総三里塚に開設され,緬羊飼養が積極的に奨励された。しかし,第一次のこの奨励事業は失敗に終り,明治中期から後期に至る20数年間は,政府においてなんらの施策も行なわれない空白時代が続いたのである。
 大正3年(1914)第一次世界大戦が勃発し,それまでわが国輸入羊毛の95%をあおいでいたオーストラリアとニュージーランドの両国が輸出を禁止したので,国はこれに対応して第二次緬羊増殖計画(100万頭計画)を大正7年(1918)を第1年度として樹立した。第一次奨励事業の失敗の経験を生かして,緬羊課の新設や種羊場の増設,原種羊の輸入,種羊の無償貸付,さらには緬羊技術員や羊舎の設置補助などに加えて,種緬羊購入奨励金,種緬羊輸入奨励金,産毛奨励金,緬羊および羊毛輸送費奨励金,羊肉商補助など相当手厚い奨励助長方策がとられたのであった。
 この計画でとくに眼をひくものは,緬羊飼育の形態についての指導方針である。第一次の奨励では牧場方式であったが,第二次のそれは副業的少頭数飼育を奨励指導し,組合を結成せしめて共同作業,共同利用,共同購入など,共同により飼育者が自主的に活動するよう指導され,生産物の処理については,羊毛は価格の上昇時には販売し,安いときは自家加工するよう,羊毛加工の講習会を開き,羊肉は指定商に販売するよう指導されていた。飼育されていた緬羊の品種は,メリノ,コリデール,シュロップシャーなど10指に余る雑多なものであったが,奨励品種と考えられるものは,メリノ種で,大正末期にはこの品種が全体の50%以上を占めていた。その後,アメリカやオーストラリアがメリノ種の輸出統制をしたことや,民間におけるコリデール種の成績のよかったことなどにより,コリデール種が主体をなすようになり,昭和12年(1937)には全体の70%以上を占めるようになった。
 大正14年(1925)から昭和11年(1936)までの期間においては,大正12年(1923)9月1日の関東大震災後の経済界の不況と,昭和6年(1931)に勃発した満州事変前後の国際関係の悪化など,内政外交面においてかつてみない激動期に際会したのであるが,緬羊飼育は有畜農業経営の一環として農家の間にかなり堅実に普及して行った。
 昭和12年(1937)から昭和20年(1945)までの日華事変の勃発につぐ第二次世界大戦の終戦までの時代には,軍需羊毛自給のため羊毛増産計画が樹立せられ,極めて意欲的な行政指導のもとに,緬羊飼育が伸びた時代である。羊毛増産計画の背景となったものは,国内的には昭和9年(1934)の大凶作による深刻な農村不況と,対外的にはオーストラリア政府とわが国との間に起きた通商紛争などが,強い刺激となり,羊毛自給施設奨励計画による緬羊120万頭増殖計画があったのである。
 昭和12年(1937)から実施せられたこの計画は,日華事変の拡大によって,ますます増した軍需羊毛の需要に対応して,昭和14年(1939)には中国大陸の満州(現東北地区)および北支(現華北,蒙古を含む)にまで範囲を拡大して「羊毛生産力拡充計画」と改変されたのである。
 第二次世界大戦中,緬羊は他の家畜と趣を異にし,終戦時に頭数が増加している。しかし,この期間には約6万頭の緬羊が輸入されているので,国内緬羊の増殖は,必ずしも期待どおりであったわけではない。
 第二次世界大戦後における緬羊飼養は,軍の消滅によって戦前のような手厚い保護育成は期待できなくなった。したがって,農村衣料の自給と国産繊維の増産を目標に改良増殖を行なうこととなったが,国産羊毛の生産量は,国の羊毛需要量に対して微々たるもので,もっぱら輸入に依存していたのが実状で,国の施策も強力なものではなかった。それにもかかわらず,緬羊飼養頭数は,飼養が容易なこと,戦後の深刻な衣料不足のため国産羊毛の需要が極めて増大したことなどの事情から順調に増加したのである。このようにして緬羊飼育熱は急激に高まり,一時は羊毛価格が3.75キログラム当たり5,000円から6,000円ほどにもなり,また,子緬羊取引価格は,10,000円以上にはね上がるという状態であった。その後,昭和26,7年(1951−52)ごろから羊毛の輸入量が次第に増加し,一般衣料品が店頭に出回るにしたがって,羊毛および緬羊の価格は鎮静し,綿羊の飼育は農家の衣料自給をおもな目的として,全国的に普及するようになったのである。
 この間,昭和25年(1950)から実施せられた家畜改良増殖法(法律第209号)や27年(1952)から実施された有畜農家創設事業などにより緬羊の改良増殖は一層促進された。その後緬羊をとりまく環境の変化すなわち,羊毛輸入量の増加,輸入羊毛価格の低落に伴う国産羊毛価格の下落により,また,小規模飼養形態に伴う現金所得の零細性,羊肉需要の激増に伴う屠殺頭数の増加など,多くの阻害要因のため,昭和32年(1957)の飼養戸数643,000戸,頭数945,000頭を頂点として,その後は急激に減少に転じ,昭和51年(1976)には僅か1万頭となった。