既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第5章 その他の家畜家禽

第2節 緬羊

2 岡山県における緬羊飼養

 岡山県における緬羊飼養の歴史を見れば,明治37年(1904)に岡山県種畜場で開場とともに緬羊が飼養されたのが最初のようである。それ以後,国の緬羊飼養動向と軌を一にして伸展し,とくに第二次世界大戦後の伸びが大きく,昭和33年(1958)には飼養戸数7,100戸,頭数は1万頭をこえた。しかし,これを頂点としてそれ以後飼養頭数は急減し,昭和43年(1968)の200頭を最後に,県統計から姿を消した。

(1) 大正年代から昭和初期までの緬羊飼養

 県下で緬羊が一般農家で飼いはじめられたのは,大正年代に入ってからで,その時期は,第二次緬羊増殖計画樹立(大正7年)のあとであった。大正7年(1918)久米郡加美村(現中央町)に種緬羊の払下げを受けたのが初めで,ついで阿哲郡上刑部村(現大佐町),上房郡有漢村(現有漢村)において飼養されだした。
 岡山県内務部(大正12年)『岡山県産業調査書(現況の部)』によれば「緬羊事業は,まだ,緒についたばかりなので速断できないが,小農においても行なえる副業であって,今日にわかに増えつつある状況を見ても,将来一層奨励して増殖する必要があると認める」ということであった。しかし繁殖成績が悪く,腰麻痺などによる損耗も多かったので,当初払下げを受けた89頭その他を合せて103頭飼養されていたものが,昭和7年(1932)末現在では49頭に減少している。これは導入された地域が和牛の生産地であって,緬羊の管理飼育が未熟であったことに加え,産牛に比較して緬羊飼育が有利ではなかったためである。
 この時期の国の指導方針は,第一次緬羊奨励の失敗の経験から,@放牧方式より舎飼方式を主体として,A牧場経営でなく副業的少数飼育形態を奨励し,B自主的な組合(畜産小組合)をつくり,共同作業,共同利用,共同購入などの集団的な活動を指導し,C羊毛の自家加工技術を普及し,自家利用などを主体としていた。
 昭和初期の農業恐慌に際し,国は農家経済の建てなおしのため「有畜農業奨励規則」(昭和6年省令第16号)を公布して,いわゆる有畜農業を奨励した中で,岡山県では,耕地5反以上の農家は大動物1頭もしくは中動物2頭以上および小動物50羽以上を,5反以下の農家は数戸共同して大動物1頭または各戸に中動物1頭および小動物30羽以上を,それぞれ飼養することを目標として指導奨励し,同時に畜産小組合を盛んに結成させたが,まだ緬羊単独の組合はつくられる段階には至っていなかった。