既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第5章 その他の家畜家禽

第2節 緬羊

2 岡山県における緬羊飼養

(2) 第二次世界大戦中の緬羊飼養

 昭和11年(1936)になると,国際情勢は悪化し,軍需羊毛の急速な自給体制を確立する必要が生じたので,国はその自給をはかるとともに,一方において農村経済更生のため,羊毛自給施設奨励事業を推進することとして,日本,満州,北支(蒙古を含む)を通して緬羊の改良増殖に努力した。しかし,やがて第二次世界大戦後の勃発により種緬羊の輸入ができなくなり,期待どおりの結果は得られなかった。
 第二次世界大戦中の緬羊飼養状況については,十分な記録が見当たらないが,飼養頭数からみれば,昭和11年(1936)が238頭で,年間1頭当たりの原毛生産量を3.5キログラムと推定して,年間2,737キログラムの産毛量ということになる。その後かなり急速な増加傾向で推移しているが,この間県外からかなりの導入のあったことを考え合せると,県内での増殖成績がとくに良好であったとはいえなかったようである。その理由は,全国的な傾向と同じように飼養管理技術の未熟と,疾病の多発による損耗が多かったためと思われる。
 昭和15年(1940)8月,県は「緬羊飼育奨励規程」をもって,緬羊専任職員の設置,緬羊飼育,毛皮の加工場,および機械設備,共同出荷,共同購入,講習会の開催などについて補助金を出している。
 当時県内の緬羊指導は,千屋種畜場(現和牛試験場)を中心として実施されていた。ここに緬羊が飼われたのは,表5−2−3のように昭和8年(1932)メリノ雑種雌雄各1頭が飼育されたのに始まるが,昭和11年(1936)からはコリデール種に統一されている。飼養頭数が最大になったのは昭和12,3年(1937〜38)ごろ240頭余り繋養されたときであった。種緬羊の払下げについては表5−2−3のとおり微々たるものであった。ここではまた,羊毛加工についての研究と指導も実施されていて,昭和12年(1937)ホームスパンが織られるようになっていた。当時農家では簡易紡毛器やハンドカードなどによって,羊毛を紡ぎ毛糸をつくって,自家用に供していた時代であった。