既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第5章 その他の家畜家禽

第4節 家兎

2 昭和年代における養兎

 昭和6年(1931)に満州事変が勃発すると,軍用兎毛皮の需要が急増した。翌年には,従来有色兎毛皮(ベルジアンが多い)だけであったのを,白色(日本白色種),雑色のものも軍納されるようになった。
 昭和6年(1931)1月,農山漁村不況救済のため,国(農林省副業課)は,県に対して資金貸付を行なった。県は,これを市町村その他の団体に転貸することになった。畜産関係としては,「畜産施設事業(牧野整備と畜産共同施設)」のほかに,「輸出向副業施設」として,その中に養兎場が挙げられていた。低利資金の額は明らかでないが,貸付の対象は,非営利法人および10人以上の連帯者となっていて,貸付条件は,2年以内の据置期間を含めて7年(共同設備および機械は12年)であった。
 岡山県千屋種畜場では,時代の要請に対応して,昭和9年(1934)から養兎を初めている。これは戦後昭和25年(1950)廃止されたが,最盛期の昭和21年(1946)には,140頭(アンゴラ種21頭および白色在来種103頭などの毛皮用種119頭など)の種兎を飼育し,年間229頭の払下げを行なった。
 昭和12年(1937),日華事変の勃発とともに兎毛皮の輸出は禁止された。国は家兎増殖のため,同年9月,播磨,大宮,青森の3種鶏場に畜産試験場出張所をそれぞれ設けて種兎の繁殖,配布事業を行っている。県では,昭和13年(1938)2月に,戦時畜産奨励施策の中の1つとして,「種兎払下規程」を制定し,国の施設から種兎450頭の払下げを受け,これを農会などの団体に対して一番1円で払い下げた。
 統計により家兎の飼育状況の推移を見れば,表5−4−2のようであって,農家副業として,昭和初期以来増加し続け,飼養戸数は昭和14年(1939)の62,381戸を,頭数は同15年(1940)の157,814頭をピークとしている。その後,昭和22年(1947)まで大体10万頭の大台を保ったが,それ以後の減少傾向は著しく,昭和30年(1955)の12,620頭まで,年平均1万頭以上の減少を示している。その後,農業の規模拡大,高度経済成長の波に呑まれて,統計上は僅かに命脈を保っているものの,今では一般には全くその影を見なくなった。

 戦中,頭数の最も多かった昭和15年(1940)における郡市別飼養状況は,表5−4−3のとおりであった。

 昭和20年(1945)8月15日,終戦とともに軍兎の需要は終ったが,アメリカから大量輸入される食糧の見返り物資として兎毛および兎毛皮が必要とされた。
 県においては,昭和23年(1948)5月,岡山県農業計画委員会を設け,同年中に「岡山県農業振興計画(第1次案)をまとめた。岡山県企画室(昭和24年)の発表したこの計画の中で,家兎については次のように述べられている。

   1 方針
     輸出品としての兎毛皮並びに兎毛の増産を期すると共に被服資源の自給,動物性蛋白質の供給源培養を目的とし,主として婦女子並びに児童等の労働活用による毛皮用兎及び毛用兎(アンゴラ種)の飼育普及を図る。
   2 増殖目標
     昭和28年(1953)において毛皮用兎123,000頭,毛用兎2万頭に増殖し,兎毛皮12万枚,兎毛7,600ポンド,兎肉130トンの年間生産を目標とする。(以下略)
   3 改良増殖対策
    (イ) 指定種兎場の内容充実を図り,子兎の生産増加と配布をなす。
    (ロ) アンゴラ種兎の移入により,産毛量の増加並びに毛質の向上を図る。
    (ハ) 学校における養兎事業を普及し,児童に対する養兎知識の涵養を図る。
    (ニ) 農村における動物性蛋白質の自給上,兎肉の簡易貯蔵加工法の普及を図る。
    (ホ) 疾病特に「コクシジューム」症の予防に努め,損耗を減少せしめる。

 昭和24年(1949)9月18日には,岡山県アンゴラ兎農業協同組合(組合長 藤井勝志)が設立され,事務所を岡山市下石井新興飼料工業協同組合内に設けている。また,同年10月19−27日の間,岡山市の天満屋において,同農協主催によりアンゴラ兎展示会が催された。

 国においても,昭和27年(1952)発表した畜産振興10ヵ年計画の中で,昭和27年(1952)の150万頭(毛皮用兎120万頭,毛用兎30万頭)を,10ヵ年後には451万頭(毛皮用兎360万頭,毛用兎91万頭)に増殖するという養兎計画を樹立したが,これらはいずれも,その後急速に変化した食糧需給や農業事情の中で,事志と異なり,産業上の価値を失ったことはここに改めて述べるまでもない。