既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第6章 牧野,飼料作物ならびに流通飼料

第1節 牧野および飼料作物

1.牧野ならびに草地改良事業の変遷

(1)中世までの牧野の推移

  1 「牧」の分化と適地性

 わが国の農業は,米を中心とした有畜主穀農業として発展して来たが,有畜水田農業の発達にしたがって,「牧」(今日でいう草地)は,飼料用,緑肥用採草地である草刈場と,家畜の放牧地である牧場とに区別されるようになった。この区別は,牛馬が舎飼いされるようになったこととも関連している。
 「牧」は水田農業の発達とともに草刈場として広く利用されるようになり,さらに東日本で馬が兵具として,西日本では牛が農耕用として,それらの飼養が増えると,牧も全国的に普及し定着して行った。
 中世以降に牧が発達した地帯は,西日本では中国山地をはじめ北九州や南四国の山間地帯,
東日本では福島県の内陸部や岩手県の東部などであって,牛馬の主産地であった。これらの地帯は古生層地帯に属していて,草質とくに石灰その他の微量要素の多い良質の草が家畜によいという,農民の知恵と経験から畜産の適地として発達することになったものであろう。

  2 牧の変遷

 牧は,当初は無主の土地に発生したが,大化の改新(646)以前は氏族社会にそれぞれの統治する地域があった。この代表的なものに(ミヤケ)(御宅,屯倉,屯家)の発生がある。
 岡山県における古代の「ミヤケ」の設置状況は,「欽明天皇16年(546)に吉備5郡に白猪ミヤケを置く」(日本書紀 19),「同17年(547)に備前児島郡にミヤケを置く」(日本書紀 19),「推古天皇15年(592)に諸国にミヤケを置く」,などとなっている。
 当時は,氏族中心の経済から個人経済へと開放が実現し,産業の発達した時代であって,畜産の発達の著しい時代であった。そのおもな原因は,大化の改新(646)後,天武天皇(672−86)の『大宝律令』(大宝元年,701)および元正天皇(715−24)の『養老律令』(養老2年,718)の制定にあった。これによって,全国的に画一的な牧の設置を制度化し,さらに,醍醐天皇(897−930)の『延喜格』(延喜7年,907)および『延喜式』(延長5年,927)の制定で,さらに明確に制度化された。しかし,この時代の畜産は,まだ畜産と呼べるほどのものではなく,養畜という程度のもので,牛馬の放牧を主体としたものであった。
 『大宝律令』発布後,天長10年(833)の『令義解』の中で,牧畜に関する事項に「厩牧令」がありそのうち放牧地の組織,放牧法,放牧地の維持管理について,次の定めが見られる。

  第5条 群頭数と看視人の配置 牛馬とも雌雄あわせて100頭をもって1群とし,各群に牧子を2名置き,又牧の長と牧の書記を1名ずつおくこと。
  第6条 群の構成 1群となる100頭は,3歳以上の雌牛,4歳以上の雌馬に雄牛馬を各1頭加えて構成する。
  第11条 火入れ 毎年正月以後に一方から放牧地に火を入れ,草生を万べんなくするように管理する。

 本件での官牧ともいえるものは,桓武天皇の廷暦3年(781),「備前国児嶋郡小豆嶋に放つ所の官牛,農民の耕作物を損ずるを以て,長嶋に
遷さしむ」『続日本紀』とあり,当時は放牧地を囲む牧柵はなかったものらしく,勅令によって官牛が島に移転させられている。これ以外にもこのような例が各国に多かったと察せられる。
 このように,放牧による弊害が生ずるようになったのも,人口の増加と耕地の拡大によるもののようで,その対策として,放牧地の隔障物の設定があげられるようになった。平安朝時代には,馬が牧の外に放馬して民業に損害を与えるので隔障物を修理させ,つねにこれを検査せよという令を出しているが,ついに『延喜式』が制定される7年前の920年に「牧は必ず隔障物で囲み,牛馬が田畝の間に放散して農業その他に損害を与えないように巡回看視するように」との示達が出されている。これらのことから,隔障物の設定は,厳しく律していたことが推察される。
 これらの放牧については,本県では,牛馬は「ゆるされていた」と言い,隔障物を設けた放牧方式を「柵垣型放牧」とも言い,牛馬が入ってはならないところを「カベ」(牧柵)で囲ったのである。新見市千屋などでは昭和37,8年(1962−63年)ごろまで,村落周辺の公道で,入牧・退牧時の放牧牛の通り道となるところには,牧柵が設けられ,両側の水田,畑を保護していた。
 『延喜式』左右馬寮の巻に同寮直轄の御牧は32カ所,貢馬240頭,兵部省の所轄に属する諸国馬牛牧39カ所,外に左右馬寮直轄の寮牧6カ所があって,備前国長嶋馬牛牧は32カ所の御牧の中に含まれていた。