既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第6章 牧野,飼料作物ならびに流通飼料

第1節 牧野および飼料作物

2.飼料自給奨励事業

(1)明治時代から昭和前期までの牧草および飼料作物の生産

  1 飼料管理

 飼料自給のめばえ

 この時代においては,夏飼いの間は,北部では放牧により,南部では畦畔野草の給与により,冬期間の粗飼料は稲わらが主体であった。しかし,県南部に多く飼養された乳牛の飼養農家では,すでに一部で飼料作物が栽培されていた。また,明治維新後,政府の勧農政策によってできた大牧場において,外国から輸入した牛馬に伴って輸入された外来牧草や飼料用かぶなどが作付けされ,また,公立種畜場等が各県に設立されるとともに,ここに繋養された家畜に給与するために,飼料作物が試作されるようになった。
 これらについての記録は,余り詳しいものが見当たらないが,岡山県種畜場が,明治39年(1906)に県告示第483号「牧草種子配布規則」により,県下に牧草種子の配布を行なっている。さらに,明治42年(1909)から大正2年(1913)までの5カ年間,各種永年牧草について栽培試験が行なわれた。また,大正3年(1914)には,当時としては先駆的な水田裏作としてのイタリアンライグラスの栽培試験が開始されている。同時に山野に自生する白萩の栽培試験も始められた。

  2 有畜農業の奨励

 昭和初年の深刻な農村恐慌に当たり,昭和6年(1931)に「有畜農業奨励規則」(農林省令第16号)が公布された。
 岡山県内務部(昭和9年)の『畜産要覧』によれば,昭和6年(1931)以降,有畜農業の普及奨励のために実施された事業は表6−1−20のとおりであった。この中には,この項に直接関係のないものもあるが,参考のため表示する。
 昭和11年(1936)には県畜産組合連合会の主催により第1回岡山県乾草品評会が開催されている。

(1)有畜農業経営共進会

 有畜農業の意義を一般に広く理解させ,農業経営の改善と健実な畜産の発達に資するために実施されたこの共進会の第1回から第3回までの各回の出品のうち,1等賞を受賞したものは次のとおりであった。
  第1回(昭和6年)  邑久郡太伯村(現岡山市) 谷口 m
  第2回(昭和7年)  苫田郡小田村(現鏡野町) 北山英夫
  第3回(昭和8年)  後月郡芳井町       小庭豊太

(2)飼料作物栽培模範地設置事業

 飼料作物栽培模範地は,地理的関係や農業の実情を考慮して,表6−1−21のように,1カ所約1反歩の土地を借り入れ,それぞれ1名の管理者を設置して,次のような方法により経営している。なお,模範地には径5尺,深さ7尺のサイロを設け,模範的生産物または紫雲英,甘藷蔓,野生草などを埋蔵し,管理者に利用させ,かつ,一般に展示している。

(3)経済的飼料増産利用に関する施設

 飼料作物の種苗圃を経営し,生産した種苗を組合員に配布し,あるいは放牧地,採草地の整備,農業副産物,緑肥作物等の飼料化を図る等,努めて飼料自給に関する施設を講ずるほか,飼料の共同購入を行い,かつ,飼料の貯蔵調製施設すなわち飼料庫,飼料配合所,埋草窖,飼料粉砕器,大豆粕削機,乾草製造に必要な器具,飼料配給用車等々の施設を行っている。

(4)自給飼料の増産利用

 厩肥舎を設けて組合員に利用させ,あるいは組合員の厩肥舎の設置または畜舎の改造を指導奨励し,また,厩肥の処理運搬用器具を設置して,組合員に共同利用させるなど,おもに厩肥の増産とその品質の維持に必要な施設を行なう。同時に堆肥,緑肥の生産についても講習会の開催に助成するなど,計画的にこれを行ない,努めて肥料を自給し,金肥については共同購入を行なうなど,種々の方法によって肥料費の節減に努めている。  

  3 昭和前期における飼料自給状況

 前述のような飼料の自給増進施設などにより,昭和7年(1932)における飼料の生産利用状況は,表6−1−22のようになっている。この時代は,満州大豆粕の飼料化をはじめ,油粕類,魚粉などを,従来直接肥料としていたものを,飼料として一度家畜の腹をとおした後,肥料とするという,いわば合理化が図られたときでもあった。

 昭和12年(1937)の日華事変の勃発により,国内は次第に戦乱の渦中に引き込まれ,とくに農業経営の中核者の応召,軍馬の徴発などにより,農業労力は払底したばかりでなく,肥料,農薬,飼料等の農業資材もさし迫った状態となり,農業生産は減退し,やがて家畜も減少することになるのであるが,輸入飼料の杜絶によって,濃厚飼料へ依存度の高い家畜は大打撃を蒙ったのであるが,牛,馬をはじめめん羊,山羊などの草食家畜のこうむった影響は比較的小さかった。この間,県は昭和13年(1938)自給飼料補助金交付要項を定め,サイロの共同建設,講習会,品評会などに対して補助金を交付した。
 しかし,米,麦,いも類の食糧増産に当たり,自給飼料の栽培余地がないことで,中には乳牛を手放すとか,辛うじてこれを保持するという状態であった。長船町の牧野勉(県農業士,酪農部門)は,昭和17年(1942)に乳牛を1頭導入し,自給飼料として緑肥用のれんげを青刈り給与したが,昭和18〜19年(1943〜44)に水田5アールを飼料畑に転換し,さらにこれを10アールに増やし,半地下式サイロを2基つくって,サイレージを詰め込み酪農を始めた。その後,邑久郡農会の指定を受けて飼料作物試作圃として青刈麦類,青刈とうもろこし,青刈そら豆等の栽培を行なった。