既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第6章 牧野,飼料作物ならびに流通飼料

第2節 流通飼料

1 概説

 明治年代の畜産は,農家における小規模経営が主体であったので,飼料については,牛は野草や稲わら,豚は残飯や厨芥,鶏は放飼や縁の下で残飯,糠,粃などに青菜をきざんで混与するような原始的な飼い方であった。ただ馬だけは,この時代においても米麦糠,えん麦,乾草などが優先的に給与されていた。
 その後,養鶏は副業ながら20羽,30羽と飼養規模が少しずつ大きくなってくると,自家飼料は次第に不足するようになり,精米所から米ぬか,麦ぬか,ふすまなどを購入し,これに魚かす,大豆油かす等をまぜて自家配合して与えるようになり,種々の原料を,配合飼料として利用することの優れた点が次第に認識されて,各種の飼料原材料を販売したり,またこれらを混合または配合して販売する飼料商が現われるようになった。
 大正時代に入ると,政府の畜産奨励も次第に本格化して来た。大正5年(1916)には,千葉市に国立の畜産試験場が設置され,また,各道府県の種畜場もつぎつぎと整備され,畜産に関する試験研究を行なうとともに,優良種畜の払下げ配布を行なうようになった。家畜,家きんの能力も漸次向上し,小規模ながら各地でいわゆる畜産経営が行なわれるようになり,飼料の需要も次第に増加してきた。ことに第1次世界大戦後は,機械製粉が急速に発達したために,ふすまが増産されるようになった。一方,畜産試験場の研究により,無砂糠の飼料としての効果が確認され,米ぬかとともに油粕の利用が奨励された。また,同場で,いも糠飼料を発表し,穀類の代用として養鶏飼料に利用された。
 大正末期から昭和にかけて,畜産の発達も順調で,飼料の需要も次第に増加して,内地産の原材料だけでは不足するようになってきたため,小麦,粟,こうりゃん,とうもろこし等の輸入を行なう業者も出て来た。しかし,輸入関税の関係で余り活発には行なわれなかった。
 当時鶏卵の輸入関税が撤廃され,安い支那卵が盛んに輸入されたため,一時養鶏経営は危機にさらされたが,大正13年(1924)関税が復活されて,輸入卵の脅威を脱し,養鶏振興対策等と相まって飼料の需要も増し,輸入飼料も年々増加した。昭和2年(1927)保税工場法が公布され,これに基づいて製造された配合飼料は無税とされたため,これが飼料輸入に拍車をかける結果となった。
 昭和初期,世界的な経済恐慌の影響を受け,わが国農業も極度の恐慌に襲われ,さらに昭和12年(1937)日支事変の勃発から戦時非常事態に入った。昭和13年(1938)「飼料輸入制限規則」(農林省令第47号),「飼料配給統制法」(法律第39号)が制定され,これらによって飼料の輸入も制限され,その後,長期間にわたる統制経済下において,飼料の窮乏は次第にはげしくなり,未利用資源の活用も行なわれるようになった。
 終戦後,飼料については昭和22年(1947)「飼料配給統制法」が廃止され,その後,「日本飼料統制株式会社」,「日本飼料配給公団」等が設立されたが,これらは間もなく廃止され,昭和25年(1950)に飼料の統制は廃止された。
 昭和27年(1953)12月「飼料需給安定法」(法律第356号)が制定され,翌年3月15日から施行された。その後の著しい用畜の伸びにより,飼料の需要は著しく増加して,海外からの輸入量も急速にふえ,昭和39年(1964)には流通飼料の約半分を海外からの輸入にあおぐ状態になり,以後この傾向はさらにはなはだしくなった。一方,国内における配合飼料工場も増え,その生産能力も急速に上昇した。
 このように飼料の需給が伸びるに伴い,粗悪品も多く出回るようになったため,政府は配合飼料の品質を保全し,さらにその改善を図るため,昭和28年(1953)「飼料の品質改善に関する法律」(法律第35号)を制定し,翌年1月1日から実施した。昭和35年(1960)農林省飼料検査所が設置され,38年(1963)これを肥飼料検査所とし,現在札幌,仙台,東京,名古屋,大阪および福岡の6つの検査所でその業務を行なっているが,その後,検査業務は都道府県知事に委任されている。これにより,流通飼料の品質改善に重要な役割りを果たしている。
 昭和30年代から昭和40年代前半にかけて,わが国経済の高度発展に伴い,飼料産業も順調な発展を続けた。
 しかしながら,昭和45年(1970)ごろから,わが国飼料原料の大きな輸入先である米国の農産物輸出政策の変更,世界的な異常気象による農産物の減収,あわせてこれに伴うソ連,中国等の大量の穀物買付け,さらには48年(1973)末からの石油危機等により,飼料価格の相つぐ高騰により,わが国の畜産は非常な危機に直面した。このような異常事態に対して,国は飼料緊急対策として,政府操作飼料の麦類あるいは過剰米の一部を,配合飼料原料として払下げを行ない,また,金融面においては,畜産経営特別資金融通措置,配合飼料価格安定基金による飼料価格の補てん等を実施してこれに対応した。
 その後,飼料価格は海外市況により,ある程度の変動は見られたが,昭和52年(1977)ごろから一応鎮静状態にもどった。