既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第7章 家畜衛生

第1節 家畜保健衛生対策

1.家畜防疫の変遷

(3)昭和前期における家畜防疫事情

 昭和年代に入ってからの畜産は,有畜農業の奨励と相まって畜産組合などの組織も次第に確立し,獣医畜産技術者も質的,量的に増強されて,各家畜家禽とも飼養戸数及び頭羽数が逐年増加し,わが国の畜産は著しい進展が見られた。しかし反面,昭和初期の不況と世情不安を反映して,軍部の勢力が異常に台頭し,昭和5年(1930)の5・15事件,昭和6年9月の満州事変に次ぐ満州国の独立,さらには昭和11年(1936)の2・26事件,翌12年(1937)7月には日華事変が起こり,ついに昭和16年(1941)12月8日の真珠湾攻撃により第二次世界大戦に拡大し,昭和20年(1945)8月15日に終戦を迎えるまで,かつてない長期の戦時体制下に置かれた時代でもある。そして,戦時体制下の後半には有能な若者はもちろん,初老の者までほとんどが戦場に狩り出され,物資不足から厳しい統制が行われたので,この時期の畜産は著しく衰退した。
 このような背景の中で,昭和前期における家畜防疫事情を全国ベースで見ると,先ず特筆されるのが昭和初期における牛肺疫の発生である。この詳細については,岡山県の発生も関連するので各論で記述するが,この牛肺疫は昭和16年(1941)にも発生しているが,この年の発生を最後として国内では完全にその跡を絶つに至った。また,久しく発生をみなかった口蹄疫が昭和16年(1941)に岡山県下で摘発されているが,病牛2頭,疑似牛2頭をだすのみで他に波及することなく終息し,以後今日に至るまで根絶している。このように,明治以来最も恐れられ防疫に腐心した牛疫,牛肺疫,口蹄疫が,昭和前期までに相ついで根絶したことは,わが国の畜産界にとって誠に幸せなことというべきである。
 反面,昭和初期から豚コレラが国内で猛威をふるい,特に昭和6〜7年(1931−32),11年(1936),13〜14年(1938−39)に大発生があり,昭和7年(1932)には実に41,000頭の発生をみている。この他,馬の伝染性貧血,結核病,豚丹毒,家禽コレラ及び家禽ペストの発生が増大したが,大正年間に猛威をふるった狂犬病は次第に防圧され,炭疸,気腫疸も発生の減少が見られるようになった。しかし,昭和10年(1935)から牛のトリコモナス病が兵庫県をはじめ中国地方の各県で摘発されるようになり,新しい伝染病として果敢な防疫活動が展開されている。又,昭和15年(1940)から当時被害が増大しつつあった鶏のひな白痢病の検診が始まっている。しかし,幸いなことに戦時体制下の人手不足の時代に,悪疫の発生が少なく比較的平穏に経過したことは,わが国の畜産にとって実に幸運というべきであった。

   1 海外悪性伝染病(牛肺疫,口蹄疫)の発生概要

 (1)牛肺疫

 前述のように大正14年(1925)に侵入し西日本地域を中心に猛威をふるった牛肺疫は,防疫陣の寝食を忘れた努力が奏功して,同年末にはほとんど終息したが,ただ,京都府下では昭和に入ってからも継続的に発生が繰り返されていた。そこへ昭和4年(1929)7月に,朝鮮からの移入牛による新しい侵入があり,広島県124頭,兵庫県49頭の大口発生をはじめとして茨城,栃木,埼玉,千葉,東京,神奈川,新潟,岡山,山口,香川,愛媛の各府県に波及し,昭和4年(1929)だけで病牛224頭,感染虞牛442頭に達した。岡山県では11月2日から27日までに邑久郡邑久村(現邑久町),上道郡高島村(現岡山市),児島郡郷内村及び八浜町(現玉野市),吉備郡総社町(現総社市)で病牛7頭,感染虞牛1頭が処分されている。また,翌5年(1930)にも神奈川,岡山,愛媛,兵庫,広島の5県下において,病牛34頭,感染虞牛63頭を出したが,同年8月の神奈川県の発生を最後としてようやく終息している。この年の県内発生は,児島郡八浜町(現玉野市)の病牛1頭のみであった。
 牛肺疫は,昭和16年(1941)4月にも,朝鮮の仁川,釜山から移入した朝鮮牛によって再び侵入し,4月16日の千葉県の発生を初めとして,茨城,栃木,埼玉,長野,岡山,徳島,香川の諸県に発生したが,香川県における7月1日の発生を最後に,18頭の病牛と100頭内外の感染虞牛を出して終息した。これを最後に本病の国内での発生は見られなくなった。岡山県下においては,4月に邑久郡豊村(現岡山市)など邑久郡下6ヵ村に各1頭ずつ計6頭の病牛が摘発され,ついで7月及び8月に浅口郡連島町(現倉敷市)で2頭発生し,合計8頭の病牛と15頭の感染虞牛が処分されている。このように牛肺疫については,大正14年(1925)から昭和16年(1941)の発生まで県内の発生が常に絡んでおり,県下の畜牛界に与えた脅威は測り知れないものがあった。

 (2)口蹄疫

 口蹄疫は,昭和8年(1933)の4月から7月にかけて門司家畜検疫所において243頭発生したが,内地においては昭和41年(1908)以来全く発生が見られなかった。ところが昭和16年(1941)10月に釜山から門司へ入港した第一大正丸で入検した472頭が,11月5日解放されたが,この牛群から11月22日に岡山県邑久郡に入った中の1頭が,口蹄疫と診断され,現地検疫の結果,11月27日に新病牛1頭と疑似牛2頭が摘発された。しかし,この年の口蹄疫は,岡山県下で病牛2頭と疑似牛2頭を出したのみで終息し,以後国内では発生がない

   2 その他の家畜伝染病の発生状況

 (1)気腫疸および炭疸

 気腫疸は,県北山間部和牛生産地帯の阿哲,真庭,苫田,勝田,英田,川上,上房,吉備,後月,小田,赤磐等の各郡に土壤病として定着し,表7−1−9で見られるように毎年発生し,かなりの被害を与えている。しかし,この病気に対する正しい認識と,予防接種の励行によって逐次減少の傾向が見られるようになった。
 炭疸は,昭和2年(1927)に苫田郡高田村(現津山市),上道郡宇野村(現岡山市)に各1頭,翌3年(1938)に上房郡吉川村(現賀陽町)に1頭,同9年(1934)に岡山市網浜で1頭,翌10年(1935)には上道郡財田村(現岡山市)に1頭の発生が見られたが,いずれも散発に終っている。

 (2)結核病

 乳用牛の飼養頭数が増加するに伴い,牛の結核病は,昭和初期から毎年数10頭が摘発され,昭和10〜11年(1935−36)には100頭を越す病牛が出ており,人畜共通伝染病として当時は深刻な疾病であった。このため結核病の検査は,専任の検査員がこれに当たっていたが,職業病ともいうべきか,昭和10年代に入って検査員が相ついで3人もこの病気で死亡している。牛の結核病との因果関係ははっきりしなかったが,尊い犠牲とも考えられる。なお,終戦直前に発生が見られなかったのは,県庁においても人手不足のため検査ができなかったためである。

 (3)豚コレラ,豚疫,豚丹毒

 さきにも述べたように,昭和に入って全国的に豚コレラが発生し猛威をふるったが,県下でも昭和6年(1931)に478頭にも及ぶ大発生があった。この年の発生地域は,岡山市,倉敷市をはじめ,邑久,上道,都窪,吉備,御津の各郡で,主として県南部の養豚地帯を侵し,振興期の養豚界に多大の損害を与えている。次いで翌7年(1932)にも岡山市,児島郡に55頭が続発したが,県内の豚コレラはこれで一応終息している。しかし,昭和16年(1941)には再び県南部の岡山市を始め,玉野,倉敷,上道,児島,吉備の各郡市及び県北の津山市に流行して,164頭の病豚を出している。このように,同年には牛肺疫,口蹄疫,豚コレラなどの急性伝染病が相ついで,発生し,家畜防疫の当り年の感があった。
 豚疫,豚丹毒も表7−1−9に見られるように,県南部の養豚地帯で散発している。豚の飼養者には韓国人が多く,これらの豚の伝染病に対する防疫についての協力を得るには,かなり難渋したのが真相であった。

 (4)牛のトリコモラス病

 兵庫県の但馬地方では,昭和初期から原因不明の流産や不受胎牛が集団的に発生を繰り返していた。昭和9年(1934)8月に,兵庫県当局の申請により農林省及び獣疫調査所の係官が現地調査を行った。その調査中に獣疫調査所の二村彦治郎技師が雌牛の膣滲出液並びに雄牛の前立腺液から,トリコモナス原虫を発見し,これによりようやくその病因が判明した。これに端を発して,兵庫県はもとより類似の被害があった鳥取,島根,岡山,広島等の各県で,トリコモナス病の防疫が一斉に展開された。
 岡山県においても昭和10年(1935)に家畜防疫員として多数の獣医師を県職員に採用し,本病の防疫活動に入った。防疫に当たっては,主要な和牛生産地域を区分して,先ず,津山,真庭,阿哲,川上の各防疫班を編成し,各班は班長以下2〜3名の人員として,鏡検による牛の検診から開始した。その後,本病の被害がますます広範に及ぶ実態から,勝田英田,後月小田,久米,上房,吉備,和気,赤磐の各班が増設され,県下一円のトリコモナス退治が大々的に実施されることとなった。トリコモナス病は牛の性病で,交配(種付)によって伝播するので,病種牡牛の種付けを禁止し,雌牛も健康証明書を有するものだけ交配が許可された。病畜の雌牛は,ルゴール液で膣,子宮の洗滌を行い,治療回復の後交配を許可し,検診と治療の繰り返しで本病の撲滅を図った。しかし,種牡牛は,生殖器の構造上根治しにくいことと,多くの雌牛に影響が及ぶので,廃用処置を原則とした。同年以降毎年の病畜頭数は表7−1−9のとおりで,昭和11年(1936)の1,833頭をピークとして,その後漸減し,防疫が奏功してたことを示している。このころは,県下の各地でトリコモナス病の検診,治療風景が見られ,牛を宝とする農家にとって,獣医師は神様的な存在として敬愛されたものである。また,本病防疫の手段として牛の人工授精が普及に移され,県下では昭和18年(1943)3月に,苫田郡加茂家畜人工授精所が開設されている。

 (5)ひな白痢

 昭和年代に入って,鶏のひな白痢の被害が増大し,その伝染は介卵伝達によることが解明された。そこで本病防圧のため,種鶏群の保菌鶏摘発を,血液の凝集反応法で行うことになり,昭和15年(1940)から岡山県でも,ひな白痢検査が実施された。当時は現地で採血して血清を分離し,これを県の家畜衛生試験所に持ち帰って,試験管凝集反応法により診断していたが,陽性率は高かったようで,昭和15年(1940)以来,毎年数1,000羽の陽性鶏が摘発されている。

 (6)狂犬病

 大正年代に猛威をふるった狂犬病は,ワクチン接種の励行と,病犬の摘発殺処分によって確実に減少し,昭和前期には清浄化の傾向が見られるようになった。県下では昭和3年(1928)と7年(1932)に各1頭発生したのみである。