既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第7章 家畜衛生

第1節 家畜保健衛生対策

1.家畜防疫の変遷

(4)昭和戦後期における家畜防疫とその推移

 昭和20年(1945)8月15日の終戦を契機として,その後は戦後混乱期,体制整備期,経済復興期,経済発展期と移行し,高度経済成長期に入ったのであるが,その後期を襲った石油ショックにより減速経済への移行による安定経済成長期の今日まで,この30余年間は,古今に類を見ない変転きわまりない時代であった。その中にあってわが国の畜産は,昭和20年代は農業復興と食糧確保のために,30年代は国民の食生活改善と体位向上のために,生産性の向上をめざしてすばらしい発展を続けてきた。しかし,昭和40年代の高度成長期は,他産業部門との所得格差が拡大し,その結果,多頭羽飼育による規模拡大へと移行し,現在に至っているが,この間規模拡大で取り残された零細農家は次第に脱落して出稼ぎ傾向が顕著になった。また,最近では輸入自由化攻勢も年々高まり,消費の伸びなやみもあって,生産過剰現象が養鶏,養豚の部門に出現している。このような過程の中にあって,畜産の歩みと表裏一体となり,一貫してその保護育成に努めてきた家畜衛生技術及び組織に対する評価は,非常に高いものがある。
 戦後の混乱期から現在(1977)に至るまでの家畜伝染病の発生状況を全国的に総括すると,幸いなことに,牛疫,牛肺疫,口蹄疫など悪疫の侵入はなかった。しかし,昭和20年代には牛の流行性感冒,馬,豚の流行性脳炎,馬の伝染性貧血,豚コレラ,豚丹毒の流行が見られ,家禽にはアメリカ型のニューカッスル病が進駐軍の残飯を感染経路として侵入し,狂犬病も再度流行の兆が見えている。その他,牛の結核病,ブルセラ病,ひな白痢など多種多様な伝染病が続発し,家畜衛生組織の再建整備がいそがれている。次いで,昭和30年代には畜産振興の波にのって増頭された家畜に,引き続き前記の諸疾病が発生まん延して多大の損害を与えた。特に40年代に入ると,畜産経営の規模拡大と著しい畜産振興に伴い,主として密飼い化した中小家畜を豚コレラ,豚丹毒,鶏のニューカッスル病,密蜂のふそ病等が襲い,各地に大流行が見られた。表7−1−10に示したように,豚コレラは昭和41〜43年(1966−68)の3年間,豚丹毒も昭和41〜42年(1966−67)に大流行し,特に,鶏のニューカッスル病は,昭和40年(1965)から病勢の強いアジア型が侵入して,昭和43年(1968)まで全国各地に大発生して,養鶏界を恐怖のどん底に陥し入れたことは記憶に新しく,昭和42年(1967)には実に1,938,100羽の鶏が犠牲になり,1羽も残さず全滅した養鶏家も多かった。このように,多頭羽飼育で密飼い化した畜産経営に伴って増大した家畜伝染病に対処するため,昭和43年(1968)ごろから自衛防疫の必要性が強く叫ばれ,昭和46年(1971)6月には,家畜伝染病予防法の一部改正が行われ,第62条の2により予防のための自主的措置が明文化された。そして,このための組織として家畜畜産物衛生指導協会が各都道府県段階に設置され,自衛防疫を強力に推進することになり,国県の行う家畜防疫の一翼を担って大きな力を発揮している。

 このような努力が実を結んで,現段階における家畜防疫事情は,法定伝染病は次第に清浄化の傾向をたどり,その発生が激減してきた。反面,密飼い化による飼養環境の変化に伴い,牛の喉頭鼻気管炎,豚の流行性肺炎,萎縮性鼻炎,伝染性胃腸炎,鶏のマイコプラズマ感染症,喉頭気管炎,気管支炎,大腸菌症,伝染性ファブリキウス嚢病などの伝染性疾病が,定着化の様相を示してきた。そして,以上概説した家畜伝染病や伝染性疾病の発生動向は,岡山県下においてもほぼ同様に推移している。このため,県下の発生概要については表7−1−11に示すことに留め,その概説は省略して各論で述べることにする。

 なお,その他の特記事項として,昭和48年(1973)11月には突如として豚の水胞病が茨城,神奈川県下に発生し,愛知県にも一部が波及して関係者を憂慮せしめたが,初動防疫が効を奏して大事に至らず終息した。この年の発生は,茨城県で2戸,43頭,神奈川県で13戸,520頭,愛知県で1戸,17頭の計16戸,580頭であった。次いで昭和50年(1975)3月には東京都西多摩郡羽村町に1戸,69頭の発生が見られたが,以後の発生は鎮圧されている。また,昭和47年(1972)夏以降西日本一帯及び関東地区に,牛の流行性異常産の大発生があり,49年(1974)まで継続発生が見られた。この原因は,その後の究明でアカバネウイルスと判明したが,その被害は非常に大きく,第1年次(昭和47年8月〜48年7月)に31,782頭,第2年次(昭和48年8月〜49年7月)に7,253頭に達した。

   1 主要家畜伝染病の発生概要

 (1)結核病

 牛の結核病の検査は,畜牛結核予防法によって乳用牛を主体として毎年行われ,終戦直後の時代は,市乳業者(牛乳搾取業)にはツベルクリンの皮下注射による熱反応法,一般酪農家にはツベルクリン点眼法が実施されていた。ところが昭和23年(1948)7月の家畜伝染病予防法の一部改正に伴い,結核病は同法の法定伝染病に加えられ,検査法もツベルクリンの尾根部皮内注射法に切り替え,重軽症牛を問わず摘発して本病を根絶する方針となった。この皮内注射法の実施初年度に,県内では市乳業者の飼養牛に陽性牛が数多く摘発され,法令殺を命じたところ,業者の一部には殺手当金(最高12,000円)があまりにも低額なこと,および診断技術に対しても不満があるとして,検査を拒否する者が現れた。県は,県南の業者2名を,家畜伝染病予防法違反で告発した。結核病の裁判のケースは全国で初めてのことで,関係者の注目を集めたが,原告(県側)の勝訴となった。その結果厳然とした防疫姿勢が関係者に再認識され,その後の結核病検査を円滑にし,本病清浄化に大いに役立ったことはいうまでもない。なお,この裁判について,法廷病性鑑定人として岐阜農林専門学校の岩森教授及び鳥取農林専門学校の板垣教授が関係されたことを付記しておく。
 県下の結核病は,このようにして早期に摘発がすすみ,漸減してきたが,集約酪農の進展した昭和37年(1962)ごろから,県外からの導入牛等によって,再び増加の傾向を見せ,昭和42年(1967)ごろまでこの傾向は続いた。その後は極く少数の発生にとどまり,清浄化が進んでいる。このため,県では昭和51年(1976)度から,ブルセラ病とともに清浄地域を設定して隔年検査に切り替え実施している。

 (2)ブルセラ病

 県内におけるブルセラ病の発生は,昭和23年(1948)から見られたが,当時は種畜検査の受検牛が全血凝集反応法で摘発されていた。しかし,一部には昭和24年(1949)5月の邑久郡太伯村(現岡山市)の発生のように北海道から導入の種牡牛を原発として,乳牛に流産ストームを起こした例もある。その後,昭和29年(1954)から県北部の蒜山地域に世銀借款によるジャージー牛が輸入され,これに付随して本病の摘発が増加し,特に昭和35年(1960)から40年(1965)に至る期間は,多い年には45頭が処分されている。しかし,その後は急激に清浄化がすすみ,最近では発生が見られなくなるまでに至った。

 (3)牛の流行性感冒

 本病は,昭和24年(1949)8月に長崎県に初発して,九州から中国,四国,近畿の各府県をおそい,同年ついに岐阜,福井県の線まで北上し,流行地域は2府23県に及び,罹病牛は約162,000頭に達した。その伝染力の激しさに畜主の不安は高まり,死亡牛の出現,泌乳の激減または停止など経済的被害が大きいので,農林省は10月19日農林省令第105号をもって「家畜伝染病予防法の一部を牛の流行性感冒に適用する省令」を公布して防疫に努めた。しかし,翌25年(1950)には前年度の発生地のほか,さらに北上して東北地方まで及び,罹病牛は,実に46万余頭という大発生を見たのである。
 岡山県でも,昭和24年(1949)10月から県南部の浅口郡を初め,小田,後月,川上,都窪,児島,吉備,御津,邑久,上道,赤磐の各郡に発生まん延して,同年12月までに2,540頭の病牛を出した。しかし,これは流行の前兆で,翌25年(1950)には9月から発生がはじまり,国鉄姫新線以南の全地域に猖獗をきわめ,ほとんどの牛が感染して,その数は43,827頭にも達した。この年の防疫は,県議会でも緊急議題となり,獣医師は開業医,勤務獣医師を問わず現地に動員され,寝食を忘れて病牛の治療,防疫に尽力したものである。病性は一過性で,治療が奏功した。この時は,治療薬が払底し,旧陸軍の獣医資材用薬品はもとより,人医薬で倉庫に眠っていたものまで使用可能の薬品は,根こそぎ利用された。また,県内だけでは足りないので,大阪市道修町や島根県にまで治療薬品の買いつけに行き,前線に補給したものである。そして,翌26年(1951)には8月ごろから咽喉頭麻痺を伴う異型の流感が散発し,病牛は飼料や飲水の燕下困難のため脱水症状を起こして死亡するものが多かった。この治療には,食道カテーテルによる多量の第一胃注水が効果的で,この技術の普及により犠牲は激減した。この年の異型流感は1,863頭の発生に対し死亡牛は173頭に及んだ。
 その後,全国的に現在に至るまで,間欠的に流行を繰り返しているが,岡山県下では昭和44年(1969)に,西日本地域に発生した家衛試毒の流行の際,県内で163頭の発生が見られているにすぎない。このように発生が激減したのは,ワクチンの計画的な応用によるもので,研究陣の開発した北研毒,家衛試毒のワクチンが奏功している。

 (4)牛のトリコモナス病

 既述のように,本病は昭和10年(1935)以来の防疫により一時鎮圧されていたが,戦後再び発生が見られるようになった。県内では昭和22年(1947)の1月,後月郡西江原町(現井原市)の発生を初めとして,同年には後月,小田郡下で47頭が摘発された。翌23年(1948)には真庭郡川上,八束,二川(現湯原町)の各村に81頭,阿哲郡菅生村(現新見市)に14頭,24年(1949)には勝田郡豊国(現勝央町),湯郷(現美作町),豊並(現奈義町),豊田(現美作町)の各村に14頭,阿哲郡野馳(現哲西町),草間,豊永(以上現新見市)の各村に127頭の他,川上,和気,小田,上房,真庭の各郡に少数の発生があった。次いで,25年(1950)には真庭郡美川村(現落合町),富原村(現勝山町)及び久世町に流行し,川上,上房,阿哲,勝田,御津,赤磐の各郡にも発生して,この年も182頭に達した。しかし,次第に鎮圧されて,昭和26年(1951)には英田郡福山村(現英田町),吉野村(現作東町)で9頭の発生にとどまり,小康を得た。昭和28年(1953)には英田郡東粟倉村に38頭の流行が見られた。本病は,このように戦後混乱期の岡山県畜牛界にかなりの被害を与えたが,昭和28年(1953)の発生を最後として完全に跡を絶っている。このように,比較的短期間で本病が根絶したのは,病牛の摘発と治療に専念したことのほか,本病防疫の手段として,優良で健康な種牡牛に限定して人工授精に切りかえたためである。すなわち,主要な地区に昭和22年(1947)から県指定の家畜人工授精所を開設し,家畜改良増殖技術員である県職員(獣医師)を配置することによって,牛のトリコモナス病は根絶するとともに,家畜人工授精は実用化に向って大きく前進した。
 トリコモナス防疫の始められた当時は,自転車に顕微鏡や消毒薬を積んで検診場を巡回し,風雪に耐えて県下全域を東奔西走したもので,機動力の整備された現今に比べると夢のような時代であった。

 (5)炭疸

 戦後の県内における炭疸の発生は,昭和25年(1950)に阿哲郡野馳村(現哲西町)に1頭発生したのみで久しく発生が見られなかったが,昭和42年(1967)8月に至り,英田郡西粟倉村知社の開拓地の和牛に突然3頭発生し,翌43年(1968)には,2月から7月にかけて,県下各地の乳牛11頭に散発的に発生した。西粟倉村の発生地は,山間部の開拓部落で,4戸の農家が和牛の繁殖及び肥育を行っていたが,A農家において,8月1日飼育牛5頭のうち1頭が急死したので,同部落の全世帯主が協力して解体運搬し,付近の山中に埋却した。ついで8月6日B農家の飼育牛4頭のうち1頭が急死し,これも前回同様の処置をとり山中に埋却した。ところが,翌8月7日にはA農家の残り4頭のうち1頭が急死したため,死亡状況の異常にようやく気づき,関係機関に連絡し,調査の結果,8月10日に炭疸病と決定したものである。この炭疸発生に絡み,へい死牛の解体,運搬,埋没の作業を行った人のうち3名が,炭疸に感染して大騒ぎになった。感染は,へい死牛の解体中にブヨに刺され,そこを血液の付着している手で掻いたことが原因で,腕や耳の皮膚に感染発病したもので,患者は悪感をおぼえ,幹部ははれて,紅斑,水胞を形成し,蜂窩織炎様となって浮腫ができたと記録されている。幸いなことに抗生物質の処置や全身療法が効を奏して全員回復した。
 昭和43年(1968)発生の11頭はすべて乳牛で,2月1日に苫田郡鏡野町及び吉備郡高松町(現岡山市)のホルスタイン種に各1頭,2月15日には英田郡西粟倉村のジャージー種1頭,2月25日には津山市太田のホルスタイン種1頭,3月3日に津山市紫保井のジャージー種に1頭,3月30日には勝田郡勝央町のホルスタイン種1頭,4月1日に真庭郡美甘村のジャージー種に1頭,5月16日には英田郡西粟倉村のジャージー種に1頭,5月19日に真庭郡美甘村のジャージー種1頭,7月17日には御津郡一宮町のホルスタイン種に1頭,7月22日に井原市高屋のホルスタイン種に1頭と,単発的に相ついで多数の発生が見られ関係者を憂慮させた。この年の発生は,過去の発生地と関係するものだけでなく,県下の各地に散発したことから,汚染飼料が感染源として疑われ,関係機関で菌分離を試みたがいずれも陰性であった。しかし,共通して某メーカーの2種混合飼料を給与していたことから,この飼料の給与を中止させた結果,以後の発生は見られなくなった。また,発生牛がいずれも乳牛であった関係から,牛乳廃棄による経済的及び公衆衛生上の問題が大きく,一時は大変な騒ぎであった。この時はこれで一応終結したが,昭和47年(1972)には小田郡美星町大倉の肉用牛共同育成場に相ついで炭疸が続発し,注目されたが,限局的に発生したのみで終った。そして翌48年(1973)には英田郡西粟倉村知社の肉用牛1頭が単発したが,これを最後として,その後は発生していない。
 なお,全国的に見ると昭和29年(1954)に110頭,翌30年(1955)に56頭,昭和40年(1965)には59頭の集団発生が記録されている。同年の発生は岩手県を中心とした全国的なもので,当時輸入獣骨を原料とした第二燐酸カルシウムが感染源として疑われ,農林省は同年9月11日付畜A第5426号をもって,その後輸入獣骨を原料とする第二燐酸カルシウムの飼料への混入を中止した。その結果全国的にその後の集団発生は抑えられている。

 (6)流行性脳炎

 終戦直後の畜産界をおびやかしたのは馬の流行性脳炎で,全国的に発生をみたが,本病は人畜共通の脳炎ウイルスによるものだけに,占領軍はその撲滅を強く要請してきた。このため本病ワクチンの開発が急速にすすめられ,昭和24年(1949)から全面的に予防接種が行われるようになり,その後の発生は急減している。
 岡山県でも,昭和22年(1947)の8月に吉備郡池田村と服部村(いずれも現総社市)の農耕馬にそれぞれ5頭と1頭が連続的に発病して注目を集めた。翌年8月には,岡山市原尾島の競走馬1頭に,また,吉備郡池田村(現総社市)の農耕馬1頭に発生し,25年(1950)8月には,吉備郡池田村(現総社市),御津郡円城村(現加茂川町),真庭郡川上村の馬に1頭ずつ発生している。そして,昭和30年(1955)8月に上房郡賀陽町の農耕馬2頭に発生したのを最後に,馬の流行性脳炎は終息した。しかし,豚においては妊娠中に本病ウイルスが感染すると黒子を産生し,このための被害が増大したので,最近は,豚に対し予防注射を励行するようになった。また,人の脳炎予防のため,毎年豚の抗体をチェックして流行期を予察して防疫に努めており,人の感染も抑えられている。

 (7)馬の伝染性貧血

 戦前から軍用場を中心に重要視された本病は,戦後においても引き続き発生がみられたが,競馬の振興とともに競走馬及び馬産地を対象として全国的に病馬の摘発がすすめられ,昭和25年(1950)から28年(1953)にかけて,国内で8,000〜9,000頭が発生している。しかし,重要生産地帯を,農林大臣の指定地域として清浄化策を推進した結果,現在は平静化している。
 県下においては,昭和22年(1947)に和気郡本荘村(現和気町)で6頭発生したのが最初で,それ以後の発生は,岡山市原尾島および三蟠での県営および市営競馬に出場の競走馬が中心であって,競馬開催ごとに検診を繰り返した。その結果,昭和24年(1949)1頭,その翌年および翌々年にそれぞれ4頭と26頭発生し,27年(1952)12 頭,28年(1953)13頭,29年(1954)および30年(1955)には各7頭が摘発された。しかし,昭和 32年(1957)岡山競馬の廃止とともに,競走馬が激減したことと,農耕馬も次第に姿を消したため,その後は県内で馬はほとんど見られなくなり,必然的に伝貧の発生も無くなった。

 (8)豚コレラ,豚丹毒

 戦後における豚コレラの初発は,昭和26年(1951)の4月,浅口郡連島町(現倉敷市)のM養豚家で21頭処分したのに初まる。これとは別に,同町水島地区の韓国人養豚家グループに爆発的な発生がはじまり,5月までに1,210頭の豚が殺処分された。当時は,終戦後日が浅く,韓国人部落では密造酒が盛んに造られ,その粕が飼料に供用されており,北朝鮮の人が多かった関係で,戦勝国としての意識も強く,治外法権的な同地区における防疫作業は,困難を極めた。しかし,幹部に対する忍耐強い説得の結果,力強い協力が得られ,本病を終息させることができた。この年には,この他にも5月から7月にかけて,岡山市万成,同大供,吉備郡真金町(現岡山市)にも小流行があり,全体で1,281頭の大発生であった。そして,翌27年(1952)7月には吉備郡真金町(現岡山市)で15頭発生したが,大事に至らず終息し,数年間は平穏に経過した。しかし,昭和32年(1957)には倉敷市に小流行が認められ,35年(1960)に至って,再び倉敷市水島地区を中心に被害が拡大し,児島市(現倉敷市),玉野市,玉島市(現倉敷市),岡山市,総社市,都窪郡にも散発して,105頭が発病した。そしてこれが伏線になったのか昭和37年(1962)には,再度倉敷市水島の韓国人部落に流行がはじまり,翌年まで持続し,一部は西大寺市(現岡山市),児島市(現倉敷市),玉野市,岡山市にも波及して,両年度で292頭に達した。そして,その後のくすぶりが導火線になったのか,昭和41−42年(1966−67)にかけての1,500余頭に及ぶ大流行となったわけである。すなわち,40年(1965)ごろ倉敷市水島地区で隠ぺいされてくすぶっていたと思われる本病が動きはじめ,昭和41年(1966)に顕在化して爆発的に流行し,水島地区はもちろん,岡山市,西大寺市(現岡山市),玉野市,児島市(現倉敷市),総社市,都窪郡,赤磐郡,御津郡,上房郡の一部にも波及して,養豚界の大惨事となったが,家畜防疫陣及び関係者の必死の防疫活動により,翌42年(1967)暮れには漸く下火となり43年(1968)に,県北の久米郡中央町,津山市への飛火発生を最後に,さしもの大流行も完全に終息し,現在に至っている。このように昭和43年(1968)を最後に本病が鎮圧されたのは,関係者の涙ぐましい努力によって自衛防疫の組織が,市町村の協力を得て,家畜保健衛生所単位に確立され,予防注射が徹底的に励行されたことによるものであって,現在も,豚丹毒の予防注射とともに家畜畜産物衛生指導協会の事業として続行され,本病防圧の原動力となっている。
 豚丹毒は,昭和37年(1962)の県南部養豚地帯における240頭の流行にはじまり,以後小流行を繰り返して昭和43年(1968)に再び153頭の流行がみられ,かなりの被害を被ってきたが,前述のように自衛防疫の徹底により,本病も昭和48年(1973)以降は,その発生を絶つに至った。このことは家畜防疫の大きな成果として特筆すべきことである。

 (9)ニューカッスル病

 本病は,戦前には家禽ペストと呼ばれたもので,昭和5−6年(1930−31),関東地区を中心に約20万羽の発生があり,終戦ごろまで散発していたが,戦後しばらくは発生がなかった。しかし,昭和26年(1951)に至り,埼玉県下に進駐軍の冷凍肉の残飯に端を発したと考えられるアメリカ型の発生がみられ,同年には埼玉のほか東京,神奈川,栃木,茨城,岡山の都県に散発的に発生し,約2万羽の病鶏を数えた。その後のおもな発生は,昭和29年(1954)の大阪府を中心とする大発生で,約47万羽の被害があり,昭和39年(1964)までは,1〜2年おきに局地的な小流行が繰り返されていた。ところが,昭和40年(1965)春から,神奈川県相模原養鶏団地に大発生がみられ,次いで,夏期には大分県に病勢の強いアジア型のニューカッスル病が爆発的に発生した。そして,これらを起点として同年暮れから翌年にかけて九州一帯,愛知,静岡,関東地区にまん延し,さらに,昭和42年(1967)には全国的に飛火して,41都道府県に広がり,養鶏界を恐怖のどん底に陥しいれた。アジア型は,病勢が強く,致死率も100%に近いので,全滅した養鶏場も枚挙にいとまがなく,前記の発生数は,統計上190万羽以上に達し,いまだかつてない大惨事であった。この惨害をめぐって,本病予防のために生ワクチンの早期応用を要望する養鶏業者と,慎重論の農林省当局が,するどく対立して激論をたたかわしたのも記憶に新しいことである。その結果,昭和43年(1968)秋ごろから生ワクチンが全面的に応用され,予防接種の励行と,官民一体の防疫措置が奏効してようやく下火となり,昭和44年(1969)以降は平静化して,最近では局所的にごく少数の散発がある程度で推移している。
 岡山県下における発生は,昭和26年(1951)夏に後月郡県主村(現井原市)のM種鶏場に異常呼吸,緑便を主徴として死亡する肺脳炎型(アメリカ型)の本病が発生し,防疫活動を展開したのが最初である。先づ,同地区に対する鶏の移動禁止措置と同時に,M種鶏場及び継発のS種鶏場の全鶏1,000羽余りの殺処分と消毒を行い,併せて同村内の飼養鶏を軒下のものまで1羽残らず調査して予防接種を敢行した。現地対策本部を井原町K旅館に置き家畜防疫員10名前後が約1ヵ月泊り込みで防圧にあたった。当時の予防接種は,成鶏1羽当り1tのワクチンの静脈内注射で,盛夏の中をコンロで注射器を消毒しながら汗ダクで行ったもので,今から考えると大変なことであった。この年の発生は,同村に限局し1,119羽で終息している。
 その後,久しく発生がなかったが,昭和42年(1967)に至りそのころ全国的にまん延して猛威をふるっていたアジア型の本病が,県内にも侵入して大惨劇の幕が切っておとされることになった。初発は,同年3月津山市高野の共同育すう場で,またたく間に勝田郡勝北町,勝央町及び英田郡美作町の47戸約46,000羽に被害が広がった。また,そのころ県南部の西大寺市にも大流行があり,一部は邑久町に波及して,59戸で約6万羽が発症へい死した。その後,岡山市,久米郡中央町,小田郡美星町,笠岡市,総社市,吉備郡真備町,児島郡藤田村(現岡山市)などにも飛火して,この年には152戸約126,000羽が犠牲となり,全県下がニューカッスル病騒ぎに巻き込まれた。翌年も岡山市平田,倉敷市,邑久郡,和気郡に続発し,7戸約1万羽の犠牲を出して一応の終息をみている。しかし昭和45年(1970)には,再び浅口郡鴨方町,総社市福谷,御津郡御津町,英田郡大原町に散発して,12戸8,000羽が発症し,その翌年には井原市大江町,久米郡久米町及び久米南町で5戸約2万羽,47年(1972)には笠岡市大宜,倉敷市玉島,真庭郡落合町で8戸,1万羽余りと,断続的に発生をみてきたが,本病に対する養鶏家の認識向上と自衛組織,県の行う国家防疫が両輪となって強力に展開した防疫活動により,予防接種が徹底し,以後の発生は完全に鎮圧されている。

 (10)ひな白痢

 戦後間もなく種鶏検査が復活され,県指定種鶏場認定の条件として,「ひな白痢」の検査が毎年秋から冬にかけて厳重に実施された。検査は,種鶏検査員(個体検査)と白痢検査員(獣医師)がペアーとなり,地域別に班を編成して各種鶏場を巡回して行った。当時は50羽が最低規模で,比較的小規模のものが多く,1組で1,000〜1,500羽を1日のノルマとしていたが,陽性鶏が意外に多く,7%以上で再検査を要するものがかなりあった。ロードアイランドレッド種,横斑プリマウスロック種,名古屋種,ニューハンプシャー種などの色ものは,特に高率で,表7−1−11に示したとおり,毎年数1,000羽の陽性鶏が摘発され,陽性率も2〜3%であった。しかし,保菌鶏摘出の地味な努力が結実して,30年代の後半には非常に低率になり,清浄化の兆が見えてきたので,昭和40年(1965)から種鶏群ごとに2割抽出検査に切り替え,その後1割抽出検査として実施されている。最近では陽性率も極めて低くなり,ほとんどゼロの状態に近いまでに清浄化されている。

 (11)気腫疸

 気腫疸は,昭和27年(1952)阿哲郡千屋村(現新見市)で,29年(1954)に勝田郡北和気村(現柵原町)で,39年(1964),42年(1967)に勝田郡勝央町で,44年(1969)に勝田郡勝田町で,それぞれ和牛に1頭ずつ発生するというように,ごく僅か散発する程度になっている。これは,和牛の放牧が低調になったのと,予防注射が効を奏したためであろう。

 (12)狂犬病

 狂犬病も戦後は昭和28年(1933)に岡山市に2頭発生しただけで,その後は完全に制圧されている。本病は衛生部の所管であるが,開業獣医師に委譲された予防注射業務が徹底的に励行されたためである。

 (13)ふそ(腐蛆)病

 県下における蜜蜂のふそ病の発生は,昭和31年(1956)秋に阿哲郡草間村足見(現新見市)と神代村(現神郷町)に13群発生したのが初発で,感染経路は,岐阜県から単枠,単脾を導入したことに起因すると推測されている。その後,39年(1964)ごろまではほとんど被害らしきものをみずに経過したが,養蜂業の発達とともに,県外からの転飼も増加し,昭和40年(1965)には21群の発生がみられた。その後は,毎年のように発生が続いているが,注目されるのは,43年(1968)における久米郡久米町,児島郡灘崎町,倉敷市に発生した31群と,46年(1971)に岡山市及び久米郡久米町に大発生した154群に達する被害である。最近では昭和49年(1974)に岡山市で発生した18群と,50年(1975)に川上郡備中町及び総社市に発生した12群が記憶に新しい。

   2 その他の家畜伝染病の発生状況

 (1)牛の流行性異常産

 昭和47年(1972)の8月から翌年7月にかけて牛の流行性異常産(アカバネウイルス感染)が全国的に大発生し問題となった。全国における発生総数は,図7−1−6に示したように39,035頭で,発生状況を地域別に見ると,第1年次の流行は関東以西の諸県のうち鹿児島,宮崎,大分,熊本,広島,岡山,神奈川,千葉,茨城の各県を主とするものであったが,その他にも一部に発生がみられ,昭和48年(1973)1月前後をピークとして同年6月までに減少した。翌年には,岡山県を中心として8月下旬から再度発生がはじまり広島,島根,鳥取,香川,愛媛,兵庫等の限られた県に発生が見られた。そして,発生のパターンは,第1年次に集中的に発生の見られた県と,2年連続発生のみられた県に大別される。大部分の発生は前者に属し,千葉県の6,400頭をはじめ宮崎,大分,茨城,広島などの県がこれに該当し,後者に属する県は岡山県を最高に香川,山口,島根などの県であった。

 岡山県の発生頭数は,第1年次(昭和47年8月〜48年7月)が1,320頭で全国発生数の4.2%であったが,第2年次(昭和48年8月〜49年7月)には2,438頭で全国発生数の33.6%を占める大発生であった。発生状況は,おおむね8月から翌年3月にわたる8ヵ月間にみられ,発生のピークは,第1年次が1月,第2年次が2月であった。流行の初期(秋)には流産が主体で,流行の中・末期(初冬〜春)に関節弯曲の異形子牛が集中的にみられ,一部には大脳欠損の子牛も見られた。用途別では乳牛に多く,肉用牛に比べ約2倍の発生率であった。その状況は図7−1−7に示したとおりである。

 原因究明ついては農林省並びに農林省家畜衛生試験場,発生府県の関係機関などが精力的にこれに当たった。第2年次に連続発生があり,被害の大きかった岡山県においては,県当局の申請により,昭和49年(1974)2月に,農林省関係者による現地調査班が派遣され,真庭郡川上村,落合町,津山市および勝田郡奈義町の現地において,各種の情報を収集し,調査を行った。このときの調査班の構成は,農林省衛生課の小山国治班長をはじめとし,研究機関からは家畜衛生試験場の大森常良製剤研究部長,紺野悟病理第1研究室長,中原達夫保健衛生研究室長らであった。当初は,ウイルス,細菌などの感染病のほか,遺伝,中毒など多岐にわたる原因説があったが,疫学的あるいは病理組織学的検査によりウイルス説にしぼられ,家畜衛生試験場稲葉右二ウイルス製剤研究室長を中心とする研究者グループによって,アルボウイスルのシンプタイプに属するアカバネウイルスが原因に間違いないと考えられた。この裏づけ証明のため,北海道導入牛などでこのウイルスに対し陰性の妊娠牛を「おとり牛」として発生県の各地に設置したが,昭和49年(1974)9月に岡山県井笠家畜保健衛生所管内で笠岡市走出の「おとり牛」から陽転時の母牛の血液及び摘出胎児並びに同居牛の血液を村取し,岡山県家畜病性鑑定所の秦野好博,藤原若彦,河田治茂,長江勘次郎の病鑑グループが本病ウイルスの分離,同定に全国ではじめて成功した。このことは岡山県家畜衛生陣の実力を遺憾なく発揮したものとして全国的に高く評価されている。このように岡山県は本病に対する被害も大きかったが,原因究明のためには家畜衛生組織の総力を結集してこれに取り組み,多大の業績を挙げたわけである。なお,岡山大学農学部畜産学教室および同医学部の教授陣の応援も大きいものがあった。また,被害農家救災の行政処置としては,精液の無償配布や金融措置がとられた。そして,その後の研究で,本病のワクチン化が家畜衛生試験場で成功し,実用化も近くなっている。なお,岡山県には昭和34(1959)にも秋から異常産が流行し,翌年春にかけて関節弯曲の異形子牛や脳水腫のため哺乳虚弱,弱視,左右一方への旋回歩行をする子牛が続出し,市場取引きに困惑したことがあり,これも本病によるものではなかったかと疑われている。

 (2)その他の牛の伝染性疾病

 昭和40年代に入って乳用子牛の集団哺育,肥育素牛の集団育成,公共育成牧場の設置等が促進されるとともに,肥育牛の集団飼育や酪農経営の多頭化も大いにすすみ,牛の交流も盛んになった。このように多頭集団飼育の進展と牛の交流に伴って,畜牛界にも伝染性疾病の多様化と被害の増大が目立つようになった。そのおもなものは,ウイルス関係では,牛の伝染性鼻気管炎,パラインフルエンザ感染症,アデノウイルス感染症,RSウイルス感染症,牛コロナウイルス感染病(牛の伝染性下痢症)があり,細菌性のものでは牛の伝染性角膜結膜炎,サルモネラ菌症,クロストジウム感染症,マイコプラズマ病,大腸菌症が挙げられる。そのほか牛の鼻鏡白斑症も一時問題になり,放牧関連の疾病としては,小型ピロプラズマ,ワラビ中毒,グラステタニー様の疾患も注目される。重要なものについて簡単に解説すると,@牛の伝染性鼻気管炎は昭和45年(1970)米国輸入牛の検疫中に発見され,その後全国的に広がり,岡山県では昭和51年(1976)邑久町に初発がみられ,以後は毎年のように被害が続いている。その対策として,本病の予防注射を家畜畜産物衛生指導協会の事業として昭和51年秋から行っているが,特に,県外移出牛については行政的に全面実施されている。A牛のパラインフルエンザ3型,アデノウイルス7型の県内侵入は,昭和40年代と推測されるが,集団育成場を中心に被害が増大し,最近の抗体保有率は50〜70%にも及んでおり,複合感染することが多い。B牛コロナウイルス感染症は,一過性の水様下痢を主徴とし,乳牛では産乳の急激な低下による経済的損失が大きいが,県内では昭和48年(1973)県北部,50年(1975)岡山市,51年(1976)倉敷市,52〜53年(1977−78)県北部および西部に流行した。C牛の伝染性角膜結膜炎(ピンクアイ)は,昭和46年(1971)に米国輸入牛群から発見されたのが初めで,県内では昭和48年(1973)以降集団育成場で散発しており,発生牛舎では感染率が高い。Dサルモネラ菌症は,昭和45年(1970)津山市近郊の集団育成子牛に発生し,死亡率30〜70%に達した。その後も集団育成地帯に散発しているが,飼養環境的な二次要因の関与が大きい。E牛の鼻鏡白斑病は,ステファノフィラリヤによって発病し,国内では沖縄県に常在している。昭和50年(1975)に県内の業者が肉用素牛として沖縄県石垣島から導入した牛群に発見され,鼻鏡の糜爛潰瘍,乳頭損傷を起こすので,岡山および高梁家畜保健衛生所管内で一時大きな話題となった。しかし,内地での水平感染がないので今のところ問題はない。F放牧病関係では,小型ピロプラズマの被害が大きく,これにワラビ中毒,グラステタニー様疾患も注意を要する疾病となった。Gクロストジウム感染症,マイコプラズマ病,大腸菌症なども集団飼育地帯に,環境要因とのアンバランスに関連して発生がみられ,時によっては大きな被害になることも予想されている。

(3)豚の伝染性疾病

 養鶏同様,昭和40年代から急速に多頭化がすすみ,密飼い方式になってきた養豚界を,次々と襲って被害を増大してきたのは,各種の伝染性疾病である。おもなものだけでも,ウイルス関係では,豚の伝染性胃腸炎,パルボウイルス感染症,豚のインフルエンザ等があり,最近疾病では豚の萎縮性鼻炎,流行性肺炎,豚赤痢,ヘモフィルス感染症,サルモネラ菌症,大腸菌症,コリネバクテリウム感染症など数多くの病気があり,原虫を病原とするトキソプラズマ病も問題化している。これらの病気は国内でも発生の歴史は比較的新しいものが多く,密飼いに伴う飼養環境の悪化に起因して,県内でもその発生が顕在化したものといえる。これらはいずれも重要な疾病で,各地で集団発生が繰り返され,経済的被害も大きい。そのおもなものについて記すと,@豚萎縮性鼻炎は俗に「鼻まがり」と呼ばれ,輸入豚によって国内に入ってきたもので,県内では昭和41年(1966)に県酪農試験場(津山市太田)で発見されたのが最初で,その後広範囲に浸潤した。原因菌はボルデテーラを主因としているが,豚の感染日齢が若いほど病変が強く現れ,生後1週間以内の哺乳豚が感染すると,100%発病し,死亡率は低いが,発育遅延などによって飼料効率が低下し,経済的損失が大きい。そこで,本病の撲滅を期して当時農林省家畜衛生試験場勤務の波岡茂男博士の指導により,県酪農試験場でも森谷昇一が中心となり清浄豚造成の研究がすすめられた。昭和43年(1968)には実用化の域に達し,現在千葉方式とともに岡山方式として普及しつつある。A豚の流行性肺炎,ヘモフィルス感染症も県内に定着化の様相を示し,特に,ヘモフィルスについては,昭和50年(1975)11月に,英田郡英田町,翌年3月には川上郡備中町,久米郡久米南町及び岡山市西大寺の大型養豚場で急死の転帰をとる集団発生が相つぎ注目された。B大腸菌症もかなり早くから発生して広がっている。早発性のものでは,1週間以内の哺乳豚が敗血症で急死し,遅発性のものでは,浮腫病ともいわれ,主として8〜12週齢の幼豚が罹病死するので,繁殖養豚家にとっては大敵である。Cトキソプラズマ病,豚赤痢,サルモネラ菌症,コリネバクテリウム感染症なども広く浸潤し,最近では豚の伝染性胃腸炎の発生もみられるようになった。しかし,一方ではこれらの疾病に対するワクチン開発が急速にすすめられ,診断技術の高度化と相まって,予防法も逐次確立されつつある。

 (4)鶏の伝染性疾病

 個体が小さく昔から群として飼養されてきた鶏には,いろいろな病気が古くから存在していた。庭先養鶏からバタリー飼育,さらにケージ飼育と飼養方式が進展し,特に,昭和40年代からは,経済の高度成長期の波に乗って,多羽高密度飼育化がすすみ,大型規模の養鶏家が続出した。最近では鶏の飼育環境を,すべて人工的に調節するウインドウレス鶏舎もかなり普及しつつある。このような背景から,必然的に単位面積当たりの収容密度が高くなり,通常の開放鶏舎でも3.3u当たり30羽前後のものが多くなり,ウインドウレス鶏舎に至っては,100羽近いものが現れて来た。ブロイラーについても,平飼いで3.3u当たり40〜60羽が飼育され,完全な高密度飼育になっている。このため鶏の飼養環境の清浄化を基本的に操作しない限り,多種多様の疾病が続発して被害を招くようになり,衛生対策の良否が,養鶏経営を左右するようになったと言ってもよいほどになった。
 おもな伝染性疾病を挙げれば,ウイルス関係では,鶏痘,伝染性気管支炎,マレック病,白血病,伝染性喉頭気管炎,鶏脳脊髓炎,伝染性ファブリキウス嚢病(ガンボロ病),封入体肝炎などがあり,細菌関係では,伝染性コリーザ,呼吸器性マイコプラズマ病(Mg,Ms),大腸菌症,ブドウ球菌症,ビブリオ肝炎などがあり,原虫病では,コクシジウム症や鶏のロイコチトゾーン病がある。最近ではブロイラー関係で問題となっている俗称「へたり病」の脚弱症候群や「ポックリ病」など数多くのものがある。これに各種の栄養障害の疾病を加えると全く対応にいとまがない位である。特筆的なものとしては@マレック病が昭和43〜47年(1968−72)ごろまで猛威をふるい,急性型のため被害が大きく,育成率が極端に低下し,60〜70%程度になる群も多く,マレック病ワクチンが開発応用されるまでの間,全く危険な恐ろしい病気であった。その対策として青空育すうの普及したのもこのころである。A鶏脳脊髓炎も一時は多発し,幼虫雛が侵されたが,種鶏群に対するワクチン処置により現在は鎮圧されている。B伝染性気管支炎,コリーザも各地に流行し,被害を与えているが,これもワクチン処置で小康を得ている。C呼吸器性マイコプラズマ病は,広く浸潤し,複合感染により症状が悪化するので,現在も重要な疾病である。D伝染性喉頭気管炎は,県内の発生は少例であるが,昭和51〜52年(1676-77)に九州,四国のブロイラー地帯に集団発生して注目を浴びている。E伝染性ファブリキウス嚢病は,F嚢が侵され,免疫機能が著しく阻害されるので,各種のワクチンを応用しても抗体産生が悪く,他病を誘発しやすいので,最近特に注目されていて,被害の多いブロイラーを中心に,本病の移行抗体保有雛の生産手段が急がれている。F鶏のロイコチトゾーン病は,昭和52年(1977)当初「飼料安全法」が完全施行されるに及び,これによりピリメタミンの使用が規制されたので,再び発生するようになった。中間宿主のニワトリヌカカの防除を中心に,暫定的な対策がとられているが,抜本的なものの出現が急がれている。Gブロイラー関係では,特に,大腸菌症,封入体肝炎,「へたり病」,「ポックリ病」,ブドウ球菌症,コクシジウム症,カビ性肺炎などが多発傾向にあり,基本的な衛生対策の励行が急がれている。