既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第7章 家畜衛生

第1節 家畜保健衛生対策

1.家畜防疫の変遷

(5)家畜防疫制度の変遷と家畜衛生技術の進歩

   1 家畜防疫制度の変遷

 (1)明治初年の牛疫予防措置

 わが国における家畜防疫は,明治4年(1871)に,当時シベリア海岸地域に流行していた牛疫について,在上海アメリカ領事T・Y・マグガワンが,日本侵入の危険性を憂慮して,日本政府に向って打ち鳴らした警鐘に始まる。このとき政府は,直ちに同年6月7日づけ太政官布告第276号をもって,「牛疫予防に関する件」を公布し,牛疫防圧のため次の処置がとられている。

 明治4年6月7日 太政官御沙汰 伝染病予防につき牛皮輸入禁止(厳原藩に対し)
   〃   6月14日 民部省第14号 悪性伝染病予防注意
   〃   7月5日 太政官第329号 「リュンドルペスト説」の訳文頒布
 明治6年11月28日 大蔵省達第169号 伝染病死亡頭数調査届出
 明治9年2月29日 内務省達第20号 牛疫処分仮条例
   〃   3月7日 内務省達乙第24号 伝染牛疫予防法並斃死後処置

 このように,初めてわが国を襲った牛疫に対し,政府のとった防疫内容には患畜の発見,届出,検診,公示,移動制限,隔離,消毒,焼埋却,殺処分,手当金,獣医技術者の動員(雇入れ)など一連の予防措置が網羅されており,国内防疫の基本的な姿がすでに示されている。

 (2)獣類伝染病予防規則の制定

 畜産の発達と泰西獣医学の吸収が進むにつれて,家畜伝染病に対する世の関心が高まり,その被害から畜産を守ることの必要性が痛感され,「獣類伝染病予防規則」が,明治19年(1886)9月15日,農商務省令第11号をもって公布された。この規則にいう獣類とは,牛,馬,羊,豚をいい,伝染病には牛疫,炭疸熱,鼻疸および皮疸,伝染性胸膜肺炎(牛肺疫),伝染性鵞口瘡(口蹄疫),羊痘の6種が指定されていた。そして,ここで初めて獣医が登場し,診療,届出など防疫の第一線に立つことになり,農商務次官名をもって各府県に獣医雇用の内訓が発せられている。この規則は,明治22年(1889)5月に一部改正され,同時に農商務省告示第18号による「獣類伝染病予防心得」が公布され,現行家畜伝染病予防法の基礎がつくられ,内容が整備された。

 (3)獣疫予防法の制定と検疫の強化

 明治29年(1896)に至り,家畜防疫強化の必要性から,同年3月29日,法律第60号をもって「獣疫予防法」が公布された。これによれば,さきの「獣類伝染病予防規則」による対象家畜に犬を加え,対象とする疾病の種類に気腫疸,豚コレラ,豚羅斯疫(豚丹毒),狂犬病を追加して10種類としている。この法律制定の背景には,防ぎきれない牛疫の侵入と,招来侵入が憂慮される悪性疾病に対処するため,輸入検疫を強化することが目的の一つであった。すなわち,その第15条に「外国ヨリ獣疫侵入ノ危険アリト認ムルトキハ有病地ヨリ又ハ有病地ヲ経テ輸入スル獣類及物品ノ検疫ヲ行ヒ若ハ其ノ輸入ヲ停止スルコトヲ得」と規定し,検疫および輸入規則の措置が強化されていて,その意義は非常に大きいものがあった。それ以来検疫の精度は大いに進展した。
 なお,酪農の発達につれて,畜牛結核の被害が注目されるようになったので,明治34年(1901)4月12日に法律第35号により「畜牛結核予防法」が制定され,明治36年(1903)7月1日から施行されることになった。

 (4)家畜伝染病予防法の発布

 家畜防疫事情の変遷に伴い,獣疫予防法の全面改正が進められ,大正11年(1922)4月10日に法律第29号をもって「家畜伝染病予防法」が公布された。これにより,わが国の防疫制度に多くの新鮮さと格段の充実を加えることになった。それまでの「獣疫予防法に比較」して,改正された要点は,各種伝染病の病性および診断,予防方法が次第に明らかになり,豚,家禽類の伝染病が増大したという当時の情勢を踏まえて,家畜の種類に鶏,あひるを加え,羊を緬羊と山羊に区分し,また伝染病には牛の伝染性流産,馬緬羊山羊の疥癬,カナダ馬痘,家禽コレラを加え,鼻疸及皮疸を鼻疸と仮性皮疸に分離し,豚コレラを豚コレラと豚疫に分け,豚羅斯を豚丹毒に,伝染性胸膜肺炎を伝染性肋膜肺炎に攻め,8家畜,16病に適用範囲が拡大された。そのほか,殺処分,焼埋却などの合理化,家畜防疫委員の制度化,注射事故の補償,殺手当金の改正,臨船検疫の組み替え等々防疫制度を一層有機的なものとした。
 この法律は,昭和2年(1927)3月30日,法律第28号により一部改正が行われた。改正のおもな理由は,大正14年(1925)の牛肺疫侵入に当たり,感染虞牛の殺処分について緊急勅令が公布されたが,このことをこの法律に統一したことと,口蹄疫についても牛疫,牛肺疫と同様に,警戒と重点防疫をとる必要があること,その他不備不足な点を補うことにあった。この法律は昭和10年(1935)3月にも一部改正されて,トリコモナス病を加え,その翌年8月には,家禽ペストが追加された。

 (5)現行の家畜伝染病予防法の公布

 敗戦によって過去数10年にわたり満豪,北支,朝鮮,台湾などに築きあげてきた牛疫,牛肺疫,口蹄疫など悪性伝染病に対する防波堤を一挙に失ったため,この衛生事情の激変に耐える防疫体制の強化を図る必要性と,民主制度下においても必要な防疫処置が遂行できるようにするためには,従来の指導的事項を法的規制にのせること,さらに衛生技術の進歩をとり入れること等の理由で,昭和23年(1948)7月16日,法律第188号をもって「家畜伝染病予防法」の大改正が行われた。そのおもな改正点は@家畜検疫事務は農林大臣,すなわち動植物検疫所長が行うこととし,輸出の場合も検疫を実施すること。A牛馬の原生虫病,馬の伝貧,牛の結核病,山羊,豚のブルセラ病,馬のパラチフス,豚のパラチフスを加え,カナダ馬痘,ビブリオによる牛の伝染性流産を除くこと。B県外移動家畜は健康証明書を要することなどである。この改正により従来の「畜牛結核予防法」,「馬伝染性貧血に罹りたる馬の殺処分に関する法律」は廃止された。

 その後獣医畜産と公衆衛生との関係法令が制定され,新憲法下の民主的行政運営の傾向が全面的に現れるとともに,畜産事情においても大きな変革を示し,獣医学術の進歩も飛躍しつつあったので,これらに対応するため,昭和26年(1951)5月31日に法律第166号をもって「家畜伝染病予防法」の全面的な改正が行われた。その要点は,@寄生虫病を含む伝染性疾病の予防により,積極的に畜産振興の一翼を担う。A牛の流行性感冒,出血性敗血症,ニューカッスル病を法定伝染病に加える。B家畜,畜産物の管理者を,法律における直接義務者とする。C伝染病の発生予防を強化して防疫の積極化を図る。D家畜の移動証明制度の一部を緩和する。E国内に広くまん延する伝染病については,都道府県知事が毎年1回以上の検査を行う。F民間獣医師の活用を図る。G輸出入検疫に関する規定を整備強化する。H農林大臣の都道府県知事に対する監督と協力に関する規定を設けて,国および地方庁の総合的防疫体制の確立を期することとする,などである。以後,昭和30年(1955)には,養蜂振興法(法律180号)の制定に際して,ふそ(腐蛆)病を法定伝染病に加えた。昭和46年(1971)6月5日には法律第103号をもって一部改正が行われ,@法定伝染病にヨーネ病,アフリカ豚コレラを加え,トリパノゾーマ病,トリコモナス病,仮性皮疸,馬パラチフス,羊痘,かいせんを除く。ただし,これら除かれた疾病は届出を要する家畜の伝染性疾病とする。A法第2条の家きんの家畜伝染病の対象家畜に七面鳥,うずらを加える。B家畜の伝染性疾病について届出制度を設けた。C第62条の2に予防のための自主的措置を義務づけた。などが改正の要点である。また,最近では昭和50年(1975)5月7日に法律第29号による一部改正で,@法定伝染病に豚水胞病を加える。A牛のブルセラ病,結核病の検査方式を合理化し,清浄地域は隔年検査とする,などの改正を行ない,その他の諸点についても多くの部分改正を経て現行法となっている。

 (6)家畜保健衛生施設の発足と家畜保健衛生所法の制定

 戦前における家畜衛生の末端組織は,馬政と畜政の分離,伝染病の発生状況,家畜衛生技術の発展など,国内の諸情勢を反映して,主要疾病別にそれぞれ専任技術員を設け,これを各都道府県及び団体に配置する形態がとられてきた。しかし,昭和20年(1945)の敗戦によって,占領政策が強く打ち出され,国家の代行機関的な匂いの濃い農業会などの旧団体は解散させられ,昭和22年(1947)11月19日に,法律第132号をもって農業協同組合法が制定された。このため旧団体を根拠として活動してきた全国1,500名に及ぶ家畜衛生関係の専任技術員はおのずからそのよりどころを失う運命となった。しかし,急速に復活振興してきた畜産事情に対処するためには,家畜衛生機能の停滞は一刻も許されないので,国の畜産審議会の決定に基づく第一次畜産振興計画(昭和23〜27年)の一環として,地方衛生機能の再建を急ぐこととなり,昭和23年(1948)度から,全国,500ヵ所を目標に毎年100ヵ所の家畜保健衛生施設を,国の助成によって設置することになった。これが現在の家畜保健衛生所の母体で,岡山県においても,同年度には「家畜衛生保健所」の名称で鴨方,草間,加茂,中福田の衛生施設が発足した。
 全国各地において新しい機能を発揮しはじめ,設置当初から農民の大きな期待を得つつあったこの施設は,第一に,その要望にこたえて家畜衛生の学理と技術を広く農家の庭先に直結する機能をもたせる。第二に,諸法令がつぎつぎに改正されたので,馬産と畜産の行政の一本化,獣医畜産行政機構の大幅な整備進展などに対応して,広く家畜衛生全般の末端機構たらしめる。第三に,国及び都道府県の意思が機敏に反映し得る性格をもたせることが急務であるので,全国的組織機構として整備する,等の目的で,国は昭和25年(1950)2月の第7国会に家畜保健衛生所法案を提出し,同年3月18日法律第12号をもって「家畜保健衛生所法」として公布され,同年4月1日から施行された。家畜保健衛生所は,その後次第に整備充実されて,文字どおり地方における家畜衛生センターとして大きな機能を発揮していることは説明を要しないであろう。なお,家畜保健衛生所の詳細については別項に記載されるので省略する。

   2 家畜衛生技術の進歩

 (1)国内における技術開発と地方への伝達

 家畜衛生技術の導入は,主として明治維新以降盛んに行われた西洋文化の移入に伴って,取り入れられ発達したもので,当初は国立大学獣医学科や農商務省獣疫調査書の研究者グループによって,鋭意研究がすすめられ,その後相いついで整備発足した国公私立の獣医畜産学校や研究施設によって急速に進歩発達した。しかし,地方庁においては獣医師職員の雇用もごく少数で,明治時代はもちろん大正時代に至るまで衛生技術の開発は,主として中央の研究機関で行われ,その診断予防技術が地方に伝達修得されたものである。中でも獣疫調査書で研究開発されたワクチンや診断液類は極めて多く,明治30年代には牛疫免疫血清,炭疸免疫血清,ツベルクリン,気腫疸免疫血清,家禽コレラ血清,炭疸予防液,マレイン,鼻疸凝集反応を開発し,40年代には豚羅斯疫血清,カナダ馬痘血清,腺疫血清,豚コレラ血清,腺疫予防液,無菌気腫疸予防液などが開発されるとともに,野外で応用試験が行われた。大正時代には炭疸沈澱素反応,畜牛伝染性流産の血清診断や消毒試験,豚肺疫予防液,狂犬病予防液,豚疫予防液,ヂステンパー血清,その他各種の診断法の研究が行われ,昭和前期には牛肺疫アンチゲン,馬伝貧の診断法,ひな白痢凝集反応,家禽ペスト予防液,トリコモナス原虫,家禽コレラ,鶏痘の研究など数えきれないほどの輝かしい業績を残しており,これらの技術や血清類は研修会等により地方技術者に速やかに伝達又は配布されて,各種伝染病の防圧に大きな成果を挙げたことはいうまでもない。一方,馬疫については,陸軍獣医学校が中心になり,馬の伝貧,馬流産菌症,腺疫,鼻疸,仮性皮疸のほか骨軟症,繁殖障害など一連の研究がすすめられた。
 戦後においては,昭和22年(1947)に,農林省獣疫調査所は家畜衛生試験場と改称され,東京都小平市に移転することになり,昭和27年(1952)移転を完了した。また,重要な地域に同場の支場(北海道,東北,北陸,中国,赤穂,九州)が設置されたが,その後赤穂支場は昭和31年(1956)に,中国支場は昭和47年(1972)に廃止された。一方,同年新たに鶏病支場が岐阜県関市に誕生した。民間においても生物学的製剤の製造を主体とする研究施設が相ついで誕生し,さらに,獣医畜産関係大学の充実,各都道府県家畜衛生施設などの整備が進んで,現在の誇るべき衛生陣容ができあがった。戦後の主な研究業績としては,昭和20年代の馬の流行性脳炎の原因究明とワクチン開発,流行性感冒のワクチン(北研毒,家衛試毒),ニューカッスル病の診断とワクチン開発及び免疫方法などの研究をはじめ,前項で述べたように,そのころから被害が増大し,多様化した各家畜の伝染性疾病に対し,すべての面でその診断技術やワクチン開発がすすみ,さらに繁殖障害や栄養障害の防除技術,各種の中毒,消毒方法等々,時代の進展とともに派生する衛生需要に呼応して,枚挙にいとまのないほど研究業績が開発され,世界のトップ水準に達している。そして,これらの衛生技術は,昭和25年(1950)から実施されている農林省主催の各種家畜衛生講習会によって,各地方職員に伝達され普及に移されているので,家畜保健衛生所の病性鑑定機能の充実と相まって全国的に技術レベルは非常に向上している。

 (2)県内における家畜衛生技術の進展

 既述のように,戦前の家畜衛生に関する技術開発は,主として中央の研究機関で行われ,これが各都道府県の職員に伝達されていた。しかし,岡山県人は,伝統的に積極性に富む県民性であるので,明治時代における衛生業績として,明治32年(1899)に全国で初めて気腫疸のワクチンを製造し,県単事業として苫田郡奥津村(現奥津町)において接種試験を行ったという記録が残されている。次いで,明治45年(1912)には獣疫調査所で製造した無菌気腫疸ワクチンを,全国で初めて現地に応用し,阿哲郡千屋村大字井原及び花見において予防接種を実施している。また,明治25年(1892)から同41年(1908)にわたって大流行した牛疫及び明治41年(1908)発生の口蹄疫についても積極的に防疫に尽力し,その制圧に大きな業績を挙げている。大正時代には,全国的に大流行した狂犬病が,県内でも重要課題となったので,大正12年(1923)に岡山県家畜伝染病研究所が岡山市石関町旧県庁西側の構内に設置され,狂犬病ワクチンを製造し,本病の予防に貢献してきた。また,大正14年(1925)には県南部に牛肺疫が発生し,重大事態となったが,迅速果敢な防疫活動が奏功して早期に終息を見ている。このように,防疫人容の手薄な時代においても機を逸せず適切な防疫措置が行われ,いずれも早期に防圧してきたことは賞賛に価する。昭和年代に入っては,牛肺疫の再度の侵入や豚コレラの流行に遭遇し,これを制し,トリコモナスの発生に際しては,組織的な防疫活動と,機を逸しない家畜人工授精技術の採用も高く評価される。また,ひな白痢の診断液の製造と応用も,当時の家畜衛生試験室で行われ,病性鑑定技術も進んできた。特に,昭和10年(1935)ごろからは,トリコモナス防疫など衛生需要の急激な増加に伴って,獣医師である県職員も増員され,衛生技術のレベルも大きく向上し,牛の子宮洗滌の技術などは他県を圧して連合講習会などでは常にリーダーに選ばれていたとのことである。
 終戦後もいち早く防疫体制が整えられ,再度流行したトリコモナス防疫に積極的に家畜人工授精の普及を試み,県指定家畜人工授精所が数多く設置されて,県職員が家畜改良増殖技術員として派遣された。これが後に家畜保健衛生所に発展したものも非常に多い。昭和20年代に流行した流行性脳炎,流行性感冒,トリコモナス,豚コレラ,ニューカッスル病の防疫や結核病,ブルセラ病,馬の伝貧,ひな白痢などの検査は,当時はすべて県畜産課衛生係の職員が全県下にわたって実施したもので,時には長期出張や長期駐在を余儀なくされたものである。しかし,これらの病気の大流行の時には応援隊が合流して処置したことはもちろんである。その後,家畜保健衛生所が逐次整備されるに伴い,昭和27年(1952)ごろから防疫業務も次第に家畜保健衛生所に移譲され,昭和39年(1964)に中規模家畜保健衛生所に統合されたころから,従来行ってきた家畜診療や人工授精業務を,民間に移管することになり,本来の家畜衛生センターとして姿を変えることになった。その後,さらに衛生需要の増加と多様化に伴い全国的に広域家畜保健衛生所に再編整備されることになり,昭和47年(1972)度から岡山,笠岡(矢掛町),高梁,勝山および,津山の5ヵ所に統合され,暫定措置として4ヵ所の家畜衛生センターが付設された。なお,別途に病性鑑定施設として従来の家畜衛生試験所を発展的に解消し,昭和43年(1968)に岡山県家畜病性鑑定所が誕生した。これによって人容,設備,機動力,機構等が整備され,高度の病性鑑定,防疫活動及び衛生指導が駆使できるようになった。さらに,昭和47年(1972)度に発足した岡山県家畜畜産物衛生指導協会が自衛防疫事業を補完するようになったので,現在家畜衛生組織は万全に近いものとなったといえよう。
 この間,各家畜衛生施設における業績は非常に多く,中央の日本獣医学会,畜産学会,家禽学会をはじめ昭和30年(1955)から開催された岡山県獣医畜産学会,日本臨床獣医学会(中国地区大会)には毎年貴重な研究業績が数多く発表されている。また,家畜保健衛生所業績発表会も,岡山県では昭和40年(1965)度から開催され,第1部の家畜保健衛生所の運営問題,第2部の学術研究調査部門に分けて,毎年20数題が発表され,衛生技術の向上に大きく貢献している。この業績発表会は,次の段階として中四国ブロック大会に選抜され,さらに全国大会に優秀発表演題が集められ,開催回数は,昭和53年(1978)度で第20回に及んでいる。なお,畜産関係試験場においても,衛生部門の研究も多く,必要に応じ岡山大学と連けいした共同研究も少なくない。そのほか,昭和40年(1965)9月に発足した鶏病研究会にも積極的に参加し,岡山県支部活動も活発に続けられている。
 病性鑑定施設では近畿,中四国病性鑑定協議会を組織して,専門的な技術研修がなされている。また,公衆衛生部門,家畜共済部門でもそれぞれ活発な技術研鑚がなされている。このようにして,本県の家畜衛生に関する知識技術水準は,全国的に高く評価されている。
 また,貿易の自由化や海外との家畜,畜産物,人の交流が年とともに増大し,海外悪性伝染病の侵入も憂慮される事態になったので,農林省はこれに対処して,昭和44年(1969)度,愛知県の開催を最初として「海外悪性伝染病防疫演習」を実施し,有事のときに備えている。演習は牛疫,口蹄疫の侵入を想定したもので,全国の家畜保健衛生所,病性鑑定所などの職員をはじめ,国の試験研究機関,動物検疫施設,地方団体の衛生職員を対象に,初動防疫に重点を置いて,大がかりな実演を行うものである。現在までの開催経過は,同年の愛知県を初め,以後毎年1回広島県,群馬県,福岡県,静岡県,北海道の順に実施され,50年(1975)には岡山県で開催されている。岡山県での開催は,同年10月7〜8日の2日間,岡山市及び小田郡美星町で行われ,第1日は岡山県総合文化センターにおいて防疫机上演習,第2日は小田郡美星町の美星町農協第2集団養豚場に,口蹄疫の病豚が発生したとの想定で,大がかりな実践絵巻きが繰り広げられ,多大な成果を挙げた。
 なお,悪性疾病の伝ぱ源として心配される東南アジアの開発途上国(タイ,インドネシア等)に対し,現地に家畜衛生センターを設置して,防疫対策の改善を図る計画が実現し,国際協力事業国の委嘱により昭和53年(1978)4月,県畜産課主幹藤原若彦が,病理担当専門家として選ばれ,タイ国に派遣されて,技術指導に専念した。ところが,同年10月22日タイ国南部プケットで不幸にも交通事故にあい,意識不明のまま入院加療したが10月29日,50歳の若さでついに永眠した。葬儀は,11月9日,郷里の倉敷市藤戸寺で藤原家,岡山県および,国際協力事業団の3者による合同葬として故人の功績をしのびながら行われた。誠に尊い犠牲というべきであって,生前の功績に対し「勲六等単光旭日賞」が叙勲された。