既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第7章 家畜衛生

第2節 獣医師制度とその変遷

1.獣医師制度

(1)昭和前期までの獣医師制度

   1 獣医師の沿革

 獣医師は馬医から始まるといわれている。馬医の起りは,桓武天皇の延歴13年(794),奈良の都が平安京に遷都された時代,硯山左近将監平仲国なる者が,唐に学んで馬医の業を広めたのにはじまる。
 この時代,朝廷に飼養されていた牛馬の監督は,左右馬寮で行なわれていた。馬医は,馬寮の牛馬の医療に当たり,朝廷の競馬,騎射式の行なわれるときの儀式にもその列に加えられている。
 江戸時代になり,牛馬の飼育が盛んになって牛馬が商品化されるようになると,馬医は広く一般に重要とされるようになった。岡山藩主池田家の記録によれば,「山形小兵衛馬医者能仕候に付き,御加増米拾俵に一人扶持被下以下3拾俵3人扶持に被仰付候由被仰渡但御貯米の内にて御扶持共に被下牧馬並に御預馬共に精を出し申由向後尚以て精を出す様にと被仰渡候」とある。これによれば岡山藩には今から200年以前から馬医を置いて,牧馬および預け馬の保護に当たらせていたことが明らかである。
 岡山県では,阿哲郡神郷町高瀬の浅田家が最も古い馬医の家で,現在の浅田廉が8代目である。同家には家伝の秘伝の巻物に鍼術,灸術などの奥伝ものが伝えられている。新見市高尾の赤木家も代々馬医を業とし,現在の赤木昭典で8代目という。勝田郡大崎村(現津山市)西吉田の井上家も,初代弥次郎からの馬医で,現在の井上皎で4代目である。県南部では,邑久郡大宮村(現岡山市)下阿知の花尾家も,現在の花尾省治兄弟で5代に及ぶ獣医師の家系である。
 前述の浅田家の峯蔵は,天保(1830〜43)のころから,馬医を業とし,医術にすぐれていた。明治維新に当たり松山藩が朝敵となったとき,岡山藩が鎮撫使を命ぜられて松山(現高梁市)へ駐留した。このとき,新見藩も援助部隊を出したが,そのとき,浅田峯蔵は新見藩から馬医掛を命ぜられたという。浅田家に伝わる治療法は,専ら信仰をもとにして医術を施したようで,毎年旧正月には,吉日を選んで家族および弟子たちとともに一日中お禊ぎを唱え,伯楽天,荒神,馬頭観音の3幅を念じたという。(浅田忠勇談)
 備中,伯耆,出雲,備後の鉄山地帯は,駄馬の産地であったが,駄馬を健康にするため,馬の血液を採り,脚に灸をすえる治療を,年2回から6回ぐらい行なっていた。馬医には自分の得意先がきまっていたので,1部落ぐらいの範囲で馬を集めて,血を採って巡回した。浅田家は400頭から500頭ぐらいの区域を持っていたという。
 昔は馬医になるには師匠について5年間ぐらい血採りの術を学び,牛馬の治療術を修業し,書物によって病気の種類や治療や薬について習得し,その上ではじめて馬医を職としたようである。馬には専ら鍼術を施したようで,血を採るのに使用する針が研げるようになって,はじめて一人前になれたという。
 明治19年(1886)7月,獣医免許規則が施行されたとき,以前から診療に従事していた馬医は,引き続き治療することを認められた。県の行なう講習会に出席して獣医術の講習を受け,また,師匠が証明する者や,平素から成績のよかった者には獣医師の仮免許状が下附されたという。岡山県では明治20年(1887)末日までに,獣医開業免状が下附された人員は,89名であった。

   2 獣医師法の制定

 明治23年(1890),獣医免許規則の改正および獣医免許試験規則(農商務省令第11号)の改正が行なわれたが,このころから獣医師法制定公布の気運が盛んになったことについては,農林省畜産局(昭和41年)の『畜産発達史』(本篇)に詳しく述べられている。
 「獣医師法」は,大正15年(1926)4月,法律第53号をもって公布された。この法律では,獣医師免許資格が,@大学,専門学校において獣医学を修めて卒業した者,A獣医師試験に合格した者などに引き上げられた。また,関係畜産を牛,馬,めん羊,山羊,豚,犬および猫(鶏は昭和24年の新獣医師法において加えられた)としたこと,獣医師に対する法律上の規制が強められたこと,開業獣医師の獣医師会への強制加入を法定化したことなど,従前の取締規則からみれば,格段の相違がみられた。
 昭和14年(1939)8月には,獣医師試験委員官制が公布された。
 獣医師法第9条「獣医師ハ勅令ノ定ムル所ニ依リ道府県獣医師会ヲ設立スベシ」により,道府県段階に獣医師会が設立されるようになり,昭和3年(1928)10月には,日本獣医師会が設立された。(全国ではじめての獣医師団体は,明治18年(1885)9月に組織された大日本獣医師会である)さて,当時岡山県において獣医師会がどうなっていたかについては,残念ながらつまびらかにすることができない。
 記録をたどれば,古くは明治19年(1886)10月1日,岡山区6番町に岡山獣医師会が設立されたとある(山陽新聞社史編集委員会(昭和44年)『山陽新聞90年史』)。
 昭和18年(1943)1月,岡山県獣医師会が,県種畜場において発会式をあげ,会長に池田卓三を選出している。戦後,昭和21年(1946)4月には県獣医協会(会長奥山吉備男)が設けられたが,この会の性格や獣医師会との関係についてはつまびやかにできない。

   3 第二次世界大戦中における獣医師制度

 昭和14年(1939)2月3日,「獣医師職業能力申告令(勅令第26号)」が公布され,獣医師はすべて同年8月1日から,この勅令により地方長官に申告する義務を生じた。また,家畜衛生および救護に関する義務は,昭和13年(1938)3月公布された国家総動員法により指定する業務とされた。
 戦火の拡大につれて,獣医師不足が顕著となり,これを埋め合わせる緊急措置として獣医手制度が設けられたので,昭和17年(1942)1月,勅令第38号をもって,前述の申告令は「獣医師等職業能力申告令」に改められ,申告義務者を,獣医師のほか,獣医手およびその有資格者にも拡大された。
 さて,第二次世界大戦中に獣医師不足に対応して臨時に措置された獣医手制度とは次のようなものである。日華事変が長期化するに従い,獣医師の多くは従軍し,いわゆる銃後における獣医師不足が次第に深刻になって来た。これに対する臨時措置として,昭和15年(1940)4月4日「獣医師法等の臨時特例に関する法律」(法律第92号)が公布された。これにより,一定の資格を有する者に対し,農林大臣が「獣医手」の免許を与えることができることになった。そして獣医手は,市町村,畜産組合,同連合会または命令をもって定める団体の職員として,その団体の事業に属する家畜の疾病について,診療することができることになった。この獣医手とは,大学もしくは実業専門学校または実業学校すなわち農学校第2部において2年以上獣医学を修めた者,あるいは農学校で一定の獣医学を修めて卒業した者ならびに獣医手試験に合格した者で,農林大臣の免許を受けた者をいい,昭和20年(1945)7月には免許を受けた者は全国で1,954人に達していた。
 獣医手試験は,昭和15年(1940)10月16日,農林省令第93号をもって公布された「獣医手試験規則」によって実施され,昭和20年(1945)7月の第6回試験までに975人の合格者を出している。
 この獣医手制度は獣医師法の臨時特例であって,獣医師と比較してその資格において次のような違いがあった。すなわち,@未成年者にも資格を認めたこと,A市町村その他地方畜産団体職員としての単独の診療行為が認められたこと,B10年間の有効期限をつけられたこと,C装蹄師の免許資格を与えられなかったこと,D陸軍において獣医部将校となる資格を認められなかったこと,E獣医師会に加入する資格がなかったこと,などであった。
 獣医手免許制度の特例の施行によっても,なお獣医技術者の需要を十分みたすことができず,家畜衛生に関する総動員業務の遂行上支障をきたすおそれもあるという実情の中で「獣医師等徴用令」(昭和17年,勅令第39号)ならびに「獣医師等徴用令施行規則」(農林省令第8号)が同時に公布された。これはさきに述べた「獣医師等職業能力申告令」と表裏一体の関係において運用されたものである。

   付, 装蹄師

 畜産の発達と獣医学や装蹄術の著しい進歩により,政府はこれに対応して蹄鉄工の資質向上を図るため,明治23年(1890)4月に制定された「蹄鉄工免許規則」にかえて,昭和15年(1940)4月1日,「装蹄師法」(法律第89号)を公布し,7月1日から施行した。同年7月5日には「装蹄師試験規則」(農林省令第57号)も制定され,これらによって装蹄師の学力と地位との向上が図られた。この法律には都道府県装蹄師会の設立も規定されていて,装蹄師の技術の改良発達を期する基礎が与えられた。
 岡山県における装蹄師会の活動状況等については,戦災により関係資料が焼失したので,一切不詳である。
 第二次世界大戦後,産業馬となって,農耕運搬用に用いられるようになった馬は,その頭数が急激に減少し,昭和40年代には総頭数1,000頭を割り,43年(1968)までで県統計から姿を消す有様であって,装蹄師も当然馬の消長と運命をともにし,現在では牛の削蹄師が各地に存在するに過ぎない。日本装蹄師会主催の第9回認定牛削蹄師養成講習会が津山市太田の県酪農試験場で開催されたのは,昭和45年(1970)8月13日から2日間であった。
 記録によれば,蹄鉄工人員の推移と郡市別人員は表7−2−3および表7−2−4のとおりであった。