既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第7章 家畜衛生

第2節 獣医師制度とその変遷

1.獣医師制度

(2)昭和戦後期における獣医師制度

 終戦とともにわが国の獣医事関係の事情は一変した。多くの獣医師が戦地から復員し,外地から引き揚げ,これに加えて,朝鮮半島,台湾等の外地における法域外地域での獣医師免許取得者,または前述した獣医手等が加わって,獣医師制度は複雑混乱の極に達した。一方終戦当時の畜産は衰退かつ混乱が甚しかった。戦時中は兵器として活躍した馬は,農用としてその価値を見なおさなければならないという情勢の中で,獣医業は広く畜産本来の発達のため,また,乳肉衛生など新たに公衆衛生のために奉仕の道が開かれるようになった。

   1 戦後の獣医師制度

 終戦直後,米占領軍の政策遂行に当たり,獣医制度についてもGHQ獣医事関係者は,アメリカの獣医師制度の水準の高さなどを紹介し,新時代にふさわしい獣医師制度刷新の必要を力説したため,その刷新改善の気運は著しく盛りあがった。
 戦後新しい教育制度すなわち,6,3,3,4制のもとで獣医師免許制度は当然改革が要請されることになった。はじめ,昭和21年(1946)3月,GHQ獣医担当官の勧奨と指導のもとに,在京の獣医畜産関係者,有志による懇談会が設けられた。ところが,はっきりしたよりどころをもった審議機関を設置する必要があるということで,22年(1947)9月,社団法人日本獣医事協会が設立され,ここに獣医教育刷新委員会を設けて,従来から活躍してきた有志による懇談会の機能を継承したのである。
 この獣医事審議会は,獣医学教育刷新に関する委員会,獣医師法刷新改善に関する委員会,乳肉衛生行政に関する委員会,馬の伝貧および流脳対策委員会など10種に及ぶ分科会を設置して,精力的に審議検討し,審議結果を関係官庁またはGHQあて建議陳情した。

   2 獣医師関係団体

 昭和23年(1948)12月27日,社団法人日本獣医事協会長あてに,農林省指令23畜第4157号をもって「獣医事刷新に関する調査研究」を年度内に完了するよう委託があった。また,これよりさき22年(1947)12月24日には,22畜第354号をもって農林大臣名で,同協会長あてに「国内の新情勢に即応するため,現行獣医師法及び装蹄師法の再検討について」諮問がなされた。
 当時岡山県においては,22年(1947)3月26日に,「昭和2年(1927)4月勅令第75号の獣医師会令」による岡山県獣医師会が最終総代会を開催し,中央の動きに呼応して今後の方針について協議している。この会の事務所は県庁畜産課内に設けられていたので,県庁舎の戦災により,ほとんどの書類を焼失したが,時の幹事井谷一二(畜産課衛生係長)が毎日持ち歩いていた一部書類が焼失を免れたので,これによってようやく昭和20年度の決算書を作成し,決算書だけが提出されている。この総会に代る総代会において「岡山県獣医師会々則」が改正された。
 役員改選の結果,新しく会長に奥山吉備男が選ばれた。なお,当時編成された昭和22年度予算によれば,会員は獣医師が342人,獣医手が68人であった。
 つぎに,戦後の獣医師関係団体についてみれば次のとおりであった。すなわち,従来の獣医師法第9条の定めにより設立されていた地方獣医師会や,その連合体である日本獣医師会は,占領軍の指令により解散はさけられなかった。総蹄師法に基づく日本装蹄師会もこれと同様,昭和23年(1948)7月,獣医師会および装蹄師会の解散に関する法律第116号の公布施行によって,即時解散を余儀なくされたのである。
 その後,獣医師組織の再建問題については,前記獣医事審議会の重要問題として取りあげられ,その結果中央地方を通じ,民法団体である社団法人の設立が,各地に進められるようになった。社団法人日本獣医協会(初代会長島村虎猪)は,地方団体の自主的加入と同時に個人会員の自主加入をも認めた会員の二重構造の形で,昭和23年(1948)11月設立した。この協会は,昭和26年(1951)社団法人日本獣医師会と名称を改めて今日に及んでいる。
 この会は,昭和32年(1957)3月,第11回の定期総会において,会員構成をかえ,個人会員制度を解消し,都道府県獣医師会の自主的加入により,強固で新しい全国的獣医師の組織体となった。そして,前述の日本獣医事協会解散後は,獣医事審議会の運営を継承し,獣医界の推進母体となっている。

   3 岡山県獣医師会の再建

 終戦当時,岡山県獣医師会(会長池田卓蔵)は,県庁畜産課に事務所を置いていたが,昭和20年(1945)6月29日の大空襲により,県庁舎が烏有に帰した際,戦前の書類を全焼したため,戦前におけるこの会の組織運営等についてはつまびらかにできない。
 昭和22年(1947)3月26日,岡山県会議事堂において,昭和21年度定期総会に代えて総代会が開催された。当日の議事録によれば,池田卓蔵会長から「戦災等のために関係書類を全焼して整理も不備であるが,幹事その他役員の努力により,ようやくここに総代会を開く運びとなった」との挨拶があり,ついで議事に入っている。井谷一二幹事から「この会計書類は,私が毎日持ち歩いていたために,焼失をまぬがれたものによって整理したものであるが,昭和20年度の予算書は焼失したので,ここに決算書だけであるが,承認を願いたい。」との挨拶があった。これが戦前の組織による岡山県獣医師会の最終総代会となったが,その後は中央の動きに呼応して会則の改正もなされたことについては,前記したとおりである。
 占領軍の命令によって公布された獣医師会ならびに装蹄師会の解散に関する法律によって,中央団体の組織が再編されたのに呼応して,昭和23年(1948)7月21日,岡山県獣医師会ならびに畜産技術者連盟合同で懇談会が開催され,次の事項について協議が行なわれた。すなわち,@岡山県獣医師会解散について,A岡山県獣医協会設立について,B日本獣医協会への加入について,の3つであった。以上協議の結果,従来の獣医師会にかわる岡山県獣医協会(会長高田馬治)が,翌24年(1949)1月14日に設立された。
 岡山県獣医協会の最初の仕事は,昭和24年(1949)2月26日,日本獣医協会に入会することであった。ついで同年3月15日に至り,もとの岡山県獣医師会清算人から資金等の譲渡事務引継を完了した。
 設立当時の会員は,県協会入会者312名,日本獣医協会入会者234名であった。これが年度末にはそれぞれ,377名,および250名に増加した。同年10月20日,農林大臣から獣医師免許審議会委員として会長高田馬治が委嘱されている。
 当時のおもな行事として挙げられるものは,昭和24年(1949)7月9日から11日の間,第11回獣医師学説試験が,浅口郡金光町において施行された際,県協会は総力を挙げてこれに協力したことである。また,各種講習会等を開催しているが,とくに,獣医師実地試験を受ける獣医手を対象として,受験準備講習会を高松農業高校において開催したとき,講師として高田馬治会長ほか会員数名が参加した。
 その他,昭和24年(1949)10月ごろからの牛の流行性感冒の大流行に当たり,本病に対する臨床上必要な情報を会員に周知徹底させ,また,新獣医師法の制定公布に当たり,同法ならびに同施行規則について,周知徹底を図る等団体活動を強力に進めた。同年11月1日,農業共済団体の家畜診療施設の整備に当たり,これと開業獣医師との関係について,翌25年(1950)2月10日付けの文書をもって,県農業共済組合連合会長あてに,本会々員たる開業獣医師を優先的に嘱託し,あるいは指定獣医師とする等により活用されるよう要請した。
 昭和24年(1949)8月26日,岡山県における公衆衛生業務の中で,ことに狂犬病予防注射の状況ならびに家畜衛生防疫事務等について調査し,報告書を日本獣医協会あて提出した。翌25年(1950)3月16日づけの文書をもって岡山県知事に対し,狂犬病予防注射に開業獣医師を活用願いたいということを要請した。中央においても,公衆衛生分野において獣医業務の拡大を推進中であったが,岡山県獣医協会としてもこれに呼応して,前記運動を展開したのである。昭和25年(1950)8月26日,狂犬病予防法(法律第247号)が公布され,9月22日同施行規則(厚生省令第52号)が公布されると,10月5日づけ厚生省事務次官通牒第17号により,同法第5条の規定による予防注射は,原則として開業獣医師に行なわせること,その他細部が示され,これによってかつての公営注射は事実上民間におろされた。
 しかし統制ある業務推進の必要性から,昭和28年(1953)5月20日づけ厚生省事務次官通牒により,知事は,地方獣医師会と協議の上,選任した開業獣医師に予防注射を行なわしめることとなり,同年7月23日づけ県衛生部長通達により「指定獣医師制度」を設け,県獣医師会長の推薦した者を指定獣医師として,知事が任命することとなった。この基本原則により予防注射は,県下保健所単位に獣医師会の統制のもとに実施することとなり,予防注射実施についての計画および実施に関する事項は,所轄保健所長が主宰することになった。昭和26年(1951)当初の予防注射頭数は4万頭が計画されていた。その後この業務もますます改善され,同50年(1975)以降においては,年間10万頭以上の予防注射を70数名の指定獣医師により実施している。
 狂犬病の発生状況をみれば,昭和28年(1952)2月玉野市に,同年6月岡山市に,各1頭の疑似症が発生したが,その後は発生がみられなくなった。
 昭和26年(1951)3月,岡山県獣医協会を岡山県獣医師会と改称し,さらに同31年(1956)10月10日には,社団法人岡山県獣医師会となり,学術法人として出発した。
 学術法人として,学会を開催することになり岡山県臨床獣医学会,同獣医公衆衛生学会および同獣医畜産学会の3つの県段階の学会が毎年開催され,各回20数名の発表者があるようになった。また同26年(1951)6月から中国5県獣医師会の連合体が組織され,輪番制で5年ごとに中国地区獣医師大会,および学会を本県で開催することとなった。学会のレベルは年々向上し,昭和53年(1978)度で第20回を迎えたのである。
 県獣医師会下部組織として支部があるが,旧郡単位の支部は,市町村合併等により,昭和52年度において一部統廃合され,現在地域支部として岡山支部ほか13,職域支部として県畜産課支部ほか6支部の計21支部となっている。また,部会の必要性が叫ばれ,まず開業部会が昭和48年(1973)に,公衆衛生部会が同52年(1977)に,ついで畜産部会が同54年(1979)に順次結成され,それぞれ活発な部会活動が行われるようになった。
 このように,社団法人岡山県獣医師会は,県下全域に590余名の会員を有し,会員の社会的学術的地位の向上を図り,畜産行政に協力し,さらに動物愛護法に基づく正しい動物の飼い方についての指導等の組織活動を続けている。
 昭和戦後における獣医師の所属別状況は表7−2−5のとおりである。

   4 岡山県獣医師会館建設について

昭和31年(1956)1月5日,岡山市上石井298番(現駅元町)に土地39坪(126.84平方メートル)を求め,木造セメント瓦ぶき二階建ての獣医師会館を建設した。総経費65万円は,会員からの寄附金によった。ここには,集合所が設けられ,岡山駅西口に近い地の利を得て各種会議に,また,宿泊に大いに活用されていた。
 地理的に恵まれた獣医師会館も,駐車場をもたなくては近代生活の環境にそぐわなくなったので,昭和48年(1973)になると新館建設の議が起こり,その推進については理事会に一任された。はじめ各種畜産団体に対して,畜産団体合同事務所の設立を提唱したが,これは不調に終わり,獣医師会単独で現在の下中野の居宅付土地を購入することとなった。地理的条件のよい駅元町は,坪単価105万円で売却し,一方,下中野の224坪(742平方メートル)の居宅付土地を2,300万円で購入し,昭和49年(1974)3月事務所をここに移転した。
 昭和50年(1975)3月新会長に就任した松尾昌泰は,前会長の会館建設の意図を受け継ぎ,ここに新会館を建設することとした。新館の建設に当たっては,広く県下畜産関係団体の協力を得てこれを行なうこととし,昭和51年(1976)6月26日,出資法人である「社団法人岡山県獣医畜産会館」を設立した。初代理事長には獣医師会長松尾昌泰が就任した。新獣医畜産会館の建設費は,2,250万円であって,これに対して助成金は,県から800万円,地方競馬全国協会から700余万円を得て,翌52年(1977)3月31日竣工した。この会館は,建坪30坪(104平方メートル)の鉄骨2階建て,延面積60坪(203.15平方メートル),事務室1階3室,2階2室,および40名収容の会議室を有しており,獣医畜産関係者の研修と知識向上の拠点として,広く畜産団体の利用に応じている。