既刊の紹介岡山県畜産史

第2編 各論

第7章 家畜衛生

第3節 家畜人工授精の発達

1 沿革

 今日のわが国の家畜人工授精の基礎は,ロシアの生理学者イワノフの研究室に学んだ石川日出鶴丸(1912 当時京都帝国大学医学部教授)によって築かれたといわれている。はじめ馬について大正5年(1916)ごろから基礎研究と大がかりな応用研究が行なわれ,ついで昭和3年(1928)乳牛について研究がはじめられている。以後豚,鶏,めん羊,山羊,兎,蜜蜂に至るまでつぎつぎと,農林省畜産試験場を中心として,研究がはじめられている。和牛についても,昭和15年(1940)から同試験場および同場中国支場(現中国農業試験場畜産部)において研究が開始された(伊藤祐之ら(昭和26年)『家畜人工授精の技術』)。前記中国支場においては,同場周辺農家繋養の雌牛に対し,当時余勢種付けを行なっていたが,3回の種付けにより不受胎のものは一応,繁殖障害の疑いをもち,第4回目からは人工授精によることとした。
 その結果,生まれた子牛を目のあたりにして,はじめ半信半疑であった畜主も,人工授精の効用を知り,漸次実用化のきざしがめばえて行った。
 しかし,当時は自然交配により受胎困難な雌について,精液を確実に子宮頸管内に注入することにより,受胎率の向上を期するというのが直接のねらいであって,人工授精本来の効果である家畜改良を効率的に推進する有効な手段ということは,まだ第一義的なものとなってはいなかった。このことは昭和初期兵庫県但馬地方で発見された牛のトリコモナス病が直接の動機となって,和牛についての人工授精が,中国各県に実用化されたのをみても容易にうなづくことができる。
 岡山県における家畜人工授精の歴史は古く,岡山県(昭和15年)『岡山県会史(第5編)』によれば「牝牛生殖器ノ機械的障害ソノ他妊娠困難ナルモノニ対シ,人工的ニ受精セシメ受胎率ノ増進ヲ図ルコトハ畜牛飼養経済上最モ緊密ナルコトナルヲ以テ昭和二年ヨリ之ガ試験ヲ行フト同時ニ精虫及ビ精虫ノ活力ニ関シ調査ヲ行ヘリ」と,岡山種畜場(昭和5年)の項に記されている。
 また,昭和9年(1934)には岡山種畜場で奥山吉備男が牛に人工授精を応用している。しかし,その実用化は,昭和18年(1943)7月10日,苫田郡加茂農業会家畜人工授精所の開設によりはじめられた和牛のそれに始まる。
 昭和22年(1947)9月には加茂人工授精所をはじめ県下重要地点に県指定人工授精所を13ヵ所(和牛10ヵ所,乳牛3ヵ所)を設け,県職員を家畜改良増殖技術員として駐在させ,人工授精用器具も無償貸与し,昭和24年(1949)にこの制度が廃止されるまで,繁殖障害除去と牛人工授精の推進に大きな効果を挙げた。
 昭和25年(1950),家畜改良増殖法(法律第209号)が公布され,はじめて人工授精に関するこまかな規制がなされたなかで,家畜人工授精師は知事の免許を受けることが必要となり,農協等団体の職員,市町村職員または種雄牛管理者などが人工授精師の資格を得て,人工授精所を開設する者が多くなり,昭和26年(1951)までに,県内26ヵ所の家畜人工授精所が,家畜保健衛生所に併設され,または独自に設けられた。これにより前述の加茂家畜人工授精所は県営に移管され,加茂家畜保健衛生所の運営するところとなった。
 昭和29年(1954)11月には,千屋種畜場が刑部家畜保健衛生所(阿哲郡大佐町)との間に,鳩による精液輸送を開始した。鳩による精液輸送については,すでに昭和23年(1948)に,岡山種畜場(岡山市上伊福)が,久米郡福渡町(現御津郡建部町)吉岡隆二と共同で,岡山市と福渡との間(26キロ)の鳩による精液輸送に成功した先例があった。
 家畜人工授精師の社会的地位を確立し,技術の向上を図るなどの目的をもって,日本家畜人工授精師協会が東京都に設立されたのが,昭和31年(1956)であった。岡山県家畜人工授精師協会は,同39年(1964)4月設立されている。
 図7−3−1に示す液体精液配布組織以前には,ホルスタインは岡山種畜場および津山畜産農場をメインセンターとして,前者は県南部を,後者は県北部の家畜保健衛生所(サブセンター)に対し鉄道やバスによる精液の定期輸送を行なっていた。ジャージー種では米国から輸入した農林省からの貸付種牡牛1頭を津山畜産農場(津山市)に繋養し,津山地区のジャージー雌牛へ授精するとともに,蒜山地区のものに対しても精液を定期輸送した。中福田家畜保健衛生所には,翌30年(1955)になって種雄牛が配置されたので,津山からの定期輸送は1ヵ年で中止された。
 和牛関係については家畜保健衛生所にそれぞれ種雄牛を繋養していて,必要に応じて和牛試験場繋養種雄牛の精液を輸送していた。
 岡山県家畜人工授精所(初代所長,難波文)が,岡山県家畜人工授精所条例(昭和32年,岡山県条例第18号)により,御津郡一宮町(現岡山市)に新設されたのは,昭和32年(1957)4月1日であった。
 このことにより県南部の乳用牛および和牛の雌牛に対し精液を供給するメインセンターとして,翌年1月17日から人工授精業務を開始した。和牛については各家畜保健衛生所に散在していた種雄牛を和牛試験場へ集中管理(28頭)することとした。乳用種種雄牛は従来から酪農試験場へ集中管理されていたので,家畜人工授精所の開設により,これら,3つの施設をメインセンターとする人工授精組織が整備された。しかし,この段階では和牛においては,まだ民間種雄牛管理者のもつ種雄牛もあったが,これを契機としてその頭数が急速に減少することになったのである。
 ここで液状精液による人工授精時代である昭和30年(1955)から42年(1967)までの精液配布組織を示せば図7−3−1および図7−3−2のとおりである。

 液状精液の保存期間は約1週間程度であるが,凍結精液であれば半永久的に保存が可能となる。昭和27年(1952)ごろから,農林省畜産試験場において,牛精液の凍結保存法について研究がはじめられ,30年(1955)になると,それを用いての受胎試験が行われるようになった。岡山県においては,34年(1959)10月から,酪農試験場において牛精液の凍結についての試験が開始された。又,京都大学西川義正教授の協力を得て昭和34年(1959)9月腹腔内脂肪腫のため新見と畜場で屠殺された和牛試験場繋養の優良和種々雄牛第4下前号(黒高46)の精液を凍結保管し,これを翌35年(1960)6月までに,3つの家畜保健衛生所において授精した。(表7−3−1参照)

 酪農試験場においては,その後35年(1960)10月,凍結精液の製造および貯蔵に必要な器具を購入して,本格的な精液貯蔵試験をはじめた。昭和43年(1968)3月,同試験場に炭疸が発生したため,3週間にわたり,乳用牛の凍結精液を全面利用したのが実用化の最初である。
 岡山県家畜人工授精所は,このような人工授精技術の進歩による凍結精液の実用化により,乳用種雄牛は酪農試験場へ,和種種雄牛は和牛試験場へ,それぞれ集中管理するのは翌35年のことで,人工授精網が機能的に整備される見通しになったのを機会に,昭和41年(1966)4月1日廃止された。このとき,ここに繋養中の種雄牛はそれぞれ酪農試験場と阿哲郡大佐町にある和牛センター(のちの和牛試験場)に移管された。
 県和牛センターは,同年7月1日に開設され,和種々雄牛の集中管理と精液配布業務を開始した。凍結精液配布業務は,昭和43年(1968)10月23日県酪連を凍結精液取扱団体とし,県内に48ヵ所のサブセンターを設けて,県下の約80%の地域を対象として,乳用牛,和牛ともに行われることになった。その精液配布組織は図7−3−3のとおりであった。翌44年(1969)2月より凍結精液に全面切替えされた。

 昭和48年(1973)4月1日,かねて準備を進めつつあった家畜改良事業団岡山種雄牛センターが久米郡久米町に開場された。これにより,酪農試験場における乳用牛の人工授精業務は廃止し,代ってこのセンターで実施することになったので,同年5月30日,同場繋養種雄牛11頭をすべて同センターに譲渡した。同センターは,同年8月1日人工授精を開始した。
 このようにして現在は,和牛については和牛試験場が,乳用牛については家畜改良事業団岡山種雄牛センターが,本県の牛人工授精網のメインセンターとなっている。このような組織になってから現在までの精液配布組織は図7−3−4のとおりである。

 鶏については,養鶏試験場において昭和33年(1958)から人工授精試験が開始されているが,本格的には35年(1960)1月から6月まで153日間行なわれている。しかし,鶏の人工授精は特別な育種研究の場合を除き,普通の場合は実用化されてない。
 山羊,豚についても,20年代終りごろから30年代にかけて,家畜保健衛生所を中心として実施されたが,牛におけるほど普及をみなかった。