>既刊の紹介>岡山県畜産史 |
家畜に対する診療術は,朝鮮半島や中国大陸から伝来して来たものである。桓武天皇の時代(780)に,硯山左近将監平仲国なる者が唐に学んで馬医の業を広めたといわれる。慶長のころ(1596〜1614)にいたり,桑島政近心海が,門人に桑島姓を与えて流祖となった。延宝8年(1680),徳川五代将軍綱吉が,桑島忠直を御馬預り兼馬医に任じたのが,馬医登用のはじまりといわれている。そのころは鎖国時代であったため,技術の進歩はなかったが,天保年間(1830〜43)に菊地宗太夫が,ついで文久年間(1861〜63)に深谷馬医(後の馬医監)が,蘭学を学んで泰西獣医術をとり入れ,技術の進歩に貢献した。
明治以前の診療技術は,前述のように主として中国大陸から伝来した,鍼,灸,瀉血,焼烙,薬餌(漢方薬)によって牛馬の診療が行なわれていた。馬医は,当時伯楽とも呼ばれ,また瀉血することから血取屋ともいわれ,その多くは家畜商も兼ねていたようである。
診療技術は,世襲的家伝として継承された場合と,徒弟(内弟子)として養成された場合とがあって,かなりの技術差があったようである。松尾惣太郎(昭和30年)の『阿哲郡史』によれば,1700年代に牛馬の疫病死の記録が散見されるが,このころは江戸時代の中期にあたり,中国大陸では清朝の全盛時代であって,漢方獣医学書として『元亨全図療牛馬駝集』が発刊された時代である。この書物は「大清乾隆元年歳次」とあることから,清朝6代乾隆帝(1735〜85)時代のもので,当時の獣医学書としては内容も充実した貴重なものである。これがわが国に導入されて,当時の馬医(伯楽)の教科書的なものになっている。内容は,鍼,灸,瀉血,焼烙,薬餌など全般にわたり,図解とともに詳細に解説されている。現在人畜の治療に応用されている針麻酔の穴位もあるので,その代表的なものを掲示すれば図7−4−1〜7−4−4のとおりである。
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当時,漢方薬治処方の特徴は,ほとんどが単味のものを用いるのではなくて,何らかの佳薬が使用されて,複方となっていた。そのため,多くは散剤や煎剤として使用され,服用度数は,1日2〜3回で,10日間程度の連用となっていた。そして,胸部の疾病には食後,胸部以外の疾病には食前,四肢や血脈疾病には空腹時(食間)に投薬するのを原則としていた。
岡山県下でも,江戸時代から先祖代々馬医,獣医として栄えた家系も多い。図7−4−6の処方は,阿哲郡神郷町高瀬の開業獣医師浅田廉の先祖浅田栄蔵が,新見市高尾の開業獣医師赤木迪郎の先祖赤木丈助に薬餌処方を伝えたものの1例で,文政4年(1821)のものである。
当時は牛馬に対しては鍼術が施されることが多かったようで,また,信仰をもとにした医術が多かった。その得意先を針先といい,1頭ごとに米いくらというように治療代が定められていたようである。図7−4−7は牛的針灸穴位図である。